竹部
【たけべ】

旧国名:肥後
立田山の南西麓の斜面と西側の低平地に位置する。地名の由来は,古代の建部(たけるべ)君(公)の根拠地であったことによると考えられる(熊本の地名)。地内には東の山麓に黒髪町遺跡があり,弥生時代では須玖式甕棺のほかに黒髪式と呼ばれる甕棺が昭和10年にはじめて出土したことで有名。南の字古屋敷からも須玖式甕棺が出土している。地名の由来となったとみられる建部を統轄した建部君(公)は,飽田(あきた)郡の郡司に任じられた豪族で,「平城宮木簡」1によれば,「肥後国飽田郡調綿壱伯屯,天平三年主政大初位下勲十二等建部君馬□(都カ)」とあり,天平7年8月14日に書写された知恩院所蔵の三神智万呂願経の奥書に書写師として「建部木万呂」「建部古町」の名が見え,天平11年の瑜伽師地論の奥跋にも書写した人物として「建部広足」が見える(日本古写経現存目録)。また奈良東明寺所蔵の天平15年8月29日に書写された山田方見母願経の奥跋(同前)には,肥後国史生である山田方見が母のために「合志郡以東山裏在井出原之禅房」において書写したとあり,書写師として「建部足国」の名が見える。さらに石山寺所蔵の天平勝宝6年8月19日に書写された建部虫磨書写経の奥跋(同前)には「飽田郡 建部君虫磨」と見える。次いで「続日本後紀」の承和14年3月1日条(国史大系)によれば,「肥後国飽田郡人従三位大蔵卿平朝臣高棟家令正七位上建部公弟益男女等五人」が長統朝臣の姓を与えられ,平安京の左京三条に居を移している。さらに「三代実録」貞観3年8月21日条(同前)によれば,「肥後国飽田郡大領外従七位上建部公貞雄」が外従五位下の位を得ている。10世紀頃には蝅
地域には蚕養の長者の伝説が伝えられるが,この建部公の一族に関係したものと推定され,また安元元年10月5日の銘をもつ本光寺(坪井4丁目)の日本最古の笠塔婆(肥後国古塔調査録)に銘する「仏子長昭」も,この建部公に関係するものかと推定されている。また7世紀頃に設けられたと考えられる車大路が竹部と宇留毛・下立田の間の立田山麓を北に通じており,これは後世車道とか車街道と呼ばれてきた。そのほかには室町期の六地蔵塔の残欠や五輪の残欠などが現黒髪小学校近くから出土している。
【武部(中世)】 鎌倉期に見える地名。
【竹部村(近世)】 江戸期~明治9年の村名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7226236 |





