轟村
【とどろむら】

旧国名:肥後
(近世)江戸期~明治8年の村名。上益城(かみましき)郡のうち。地名は「とどろき」とも称し,轟木とも書く。阿蘇外輪山南部,緑川支流の五老ケ滝川中流左岸に位置する。地名は,滝の水音が轟くことにちなむという。貞応元年浜の館を守るため領内の拠点として阿蘇惟次によって築城されたという岩尾城跡がある。集落は城跡の西側急傾斜地のふもとの轟川に沿って立地する。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」36石余,「正保郷帳」も同高でうち田13石余・畠22石余,「天保郷帳」38石余,「旧高旧領」60石余。文政8年頃の益城上郡手鑑によれば,高58石余,請免15石余,年貢率2割7分余,反別は田1町4反余・畑3町1反余,竈数6・人数20うち男10・女10,牛6・馬2,庄屋は忠兵衛(綾部家旧蔵文書)。轟川左岸には嘉永5年矢部惣庄屋布田保之助が架橋した通水橋通潤橋(国重文)の取入口がある。地内には岩尾城にかかわる本丸・二の丸・出丸・一の木戸・木戸櫓・大手櫓・飯櫓・手形櫓などの地名がある。同城も愛藤寺城とともに慶長17年破却され,現在は城山神社がある。「肥後国誌」では矢部手永に属し,高58石余,「旧云土々呂村,今,轟村ト称ス」とある。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同8年城原村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7226610 |