東川田
【ひがしかわた】
![](dev/images/h-r-.png)
旧国名:肥後
八代(やつしろ)平野南部,竜峰山南麓の権現川沿いに位置する。山麓部には古墳時代後期の巨石墳群があり,西側平地部には前方後円墳や円墳が並列していたが,九州自動車道建設により,大部分が消滅。なお,川田については,戦国期の天文5年11月22日の沙弥洞然(相良長国)長状写(相良家文書/大日古5‐1)に「万休斎・同惟前,川田一両年御座候キ」とあり,阿蘇家分裂のなかで阿蘇惟憲・惟前が相良氏を頼り,当地に一両年逗留していたことがわかる。「八代日記」永禄8年5月23日条には「酉刻堺目ヨリ御左右ニ依テ,殿さま河田まて御出張,やかて御帰宅」と見える。
【東河田村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【東川田(近代)】 明治22年~昭和36年の竜峰村の大字名。
![](dev/images/h-r-.png)
![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7227264 |