東木倉村
【ひがしきのくらむら】

旧国名:肥後
(近世)江戸期~明治9年の村名。上益城(かみましき)郡のうち。矢形川中流域,熊本平野東部から飯田山南麓にかけて位置する。村高は「旧高旧領」1,032石余。熊本藩領。「肥後国誌」では木倉手永に属し,高907石余,小村は油古閑村・中島村・小路村・油ノ木原村・定香寺村・田鶴原村など。八木角左衛門の地米高137石余をはじめ9名の給人が知行していた(肥陽諸士鑑/肥後読史総覧)。文政8年頃の益城上郡手鑑によれば,高907石余,反別は田43町7反余・畑26町1反余,家数98・人数420,馬99(綾部家旧蔵文書)。神社は,文治5年創建と伝える田鶴原大明神社,村が用水に乏しかったので寛喜3年創建し水神を祀ったと伝承される足水(たるみず)神社,天神社がある。寺院に浄土真宗本願寺派威徳寺がある。寺伝によれば,天和2年宗忍が天台宗寺院として創立,寛文7年に瑞応が浄土真宗に改宗したという。このほか「肥後国誌」に定香寺とある浄光禅寺,「国郡一統志」に見える法蔵院があったが,現在は廃寺。なお用水は,寛文年間の木倉手永惣庄屋木倉(吉田)太郎兵衛掘削の矢形川から取水する用水井手を,現在も利用する。明治初年頃の木倉手永手鑑(肥後国郷村明細帳2)によれば,小売酒屋が1軒あった。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同9年木倉村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7227265 |





