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自見名
【じみみょう】


旧国名:豊前

(中世)鎌倉期から見える名(みよう)の名。豊前国下毛郡大家・野仲両郷のうち。建治3年9月8日の宇佐宮擬祝大神宮守および漆島某連署の所領配分状案に見える(永弘文書69/県史料3)。同状によれば「野仲郷今永名畠屋敷干見塩屋以下同名内自見名等」が宮守と宇佐宮御前検校宮仁大徳に配分されている。次いで元徳2年2月10日,封戸郷司田部信道は前社務公敦の非分の訴えがあった「(宇佐)神領豊前国下毛郡大家・野仲両郷内自見名・安恒両名」を,事の縁により一松前擬少宮司重郷に去渡した(永弘文書229/同前)。下って正平19年2月5日,馬入道匠善なる者が「シミ名の内ひんかしはまのしほはま」を自見の年貢桝により毎年月別8升,同じく1斗2升で請負っており(永弘文書359・360/同前),明徳元年3月には宮成領自見東浜の「一をもておきのこはま 毎年二斗,二をもてまへのはま 月別一斗二升」両塩浜の塩地子を又七なる者が無沙汰したため解任しようとしたが,誓文を提出したので免じたという(永弘文書417・418/同前)。明徳元年3月の宮成領自見名塩浜具書案には「今永名ニあらす,らっきょ畢⊏⊐しほはまの事,今永名内とかうして,さたの⊏⊐,此状ニてらっきょ畢」との端裏書が見え,それまで今永名のうちとされていた自見名は,この時より宮成領となったらしい。その後,応永18年6月17日付の宇佐大宮司宛侍従某奉書では,宇佐宮寺供僧権律師光秀(万徳坊)の訴えにより,自見名の田畠・塩浜等に対する松崎八郎次郎公綱の押妨を退け,相伝証文に任せて同地の知行を光秀に全うさせる旨が命じられている(宮成文書56/県史料24・益永文書71/県史料29)。これによれば応永段階では万徳坊領となっているが,万徳坊領となった時期やいきさつなどについては未詳である。一方,応永末期には当名の一部を割いて宇佐宮下宮御前灯油料所本自見名が設定される。応永35年2月,宇佐宮の擬大宮司兼下宮番長永弘光世は,下宮御前灯油料所本自見名のことについて解状を捧げ,諸官の証判を求めた(永弘文書600・601/県史料4)。その解状によれば,本来所々にあった下宮灯油料所は,鎌倉末期には「或遠国,或募武威仁等依難済,令牢籠」という状態になっていた。それでも嘉暦年中より上宮・若宮が火災によって下宮に移座していたため,灯油は差別なく利用できた。しかし応永25年8月吉日より上宮造営がなされ,同29年還御し,以後は下宮独自の灯油が必要になった。そこで諸官一同は僉議の結果,大内氏に注進,社家渡領のうちより当時大内氏の知行下にあった本自見名が下宮灯油料所として寄進されたという。以後,本自見名は下宮御前灯料所として歴代の下宮番長永弘氏が相伝して行く。文明16年2月25日付の万徳坊領坪付惣帳には「下毛郡大家・野仲両郷内今自見名之内」として田地分17筆・畠地分15筆が書き記されているが,そのうち田地分に「一所八町〈号本自見〉一円不知行之間,坪付除之」とあり,畠地分に「一所塩屋二面〈東浜〉」とある(到津文書273/県史料1)。これによれば自見名内の田地8町を割いて本自見名が設定され,それに伴って残部が今自見名と称されるようになったものであろう。ただし,享徳元年閏8月15日,当名の下地を永弘少宮司が抱え持ちながら2反分無沙汰したとの理由で,庄寿玄は栗原大炊助・林彦左衛門両人に下地・当作毛を点置するよう命じている(永弘文書745/県史料4)。室町期に至ってもなお自見名の呼称が用いられたらしいが,自見・今自見の区別があったのかどうか,あるいは万徳坊と永弘氏の権利関係はどのようなものであったのかなど,詳しいことはわからない。比定地は未詳だが,現在の中津市東北部に散在していたものであろう。同市海岸部には東浜の大字があり,永正7年9月8日付の本自見名検見取帳には作人の住所として宮部(宮夫)・助部・池永・高瀬・宮長(宮永)・一松など,現在の中津市の大字に遺る地名が見えている(永弘文書1472/県史料5)。なお,「永弘文書」中には永正年間を中心として,検見取帳など本自見名関係の戦国期の土地台帳が多く残されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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