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高田村
【たかたむら】


(近代)明治22年~昭和29年の自治体名。大野川河口にあり,東の本流と西の乙津川に囲まれた一種の輪中地帯を形成。地名は中世高田荘・近世の地域称を採る。鶴瀬・丸亀・下徳丸・南・常行・関園の6か村が合併して成立。旧村は大字となる。村成立より先の明治9年に高田小学校が発足し,同12年には下徳丸に校舎落成,同17年には下徳丸の興聖寺に戸長役場が設置される。さらに同26年に役場が下徳丸に落成。立地上,当村は再三洪水に悩まされている。なかでも明治26年10月14日の大洪水は,水位が3丈6尺上ったというもので堤防の決壊9か所,土地の荒廃219町余,溺死者84・流失家屋93・牛馬の死亡14。翌27年9月11日の洪水にも流失家屋26という被害をうけている。そのため耕地の荒廃をまねき,同24年の戸数585・人口2,967が,同37年には494戸・2,836人,同44年437戸・2,553人と減少。当村の土地構成もまた地形上特異なものとなっており,大正5年現在,畑263町余・宅地35町余・山林7町余と田がまったくなく,山林が非常に少ない。同5年の戸数415・人口2,540であるが,うち397戸が農家(自作92,自・小作66,小・自作108,小作131)。農産物も米は陸稲のみで産量も低く,主産物は麦・粟・牛蒡・里芋・大根などの畑作物。特に牛蒡は「高田ごぼう」として近世より著名であった。地主も「所有地ハ悉ク小作ニ委ネテ商業ニ資ヲ投ズ」(高田村是)という状況で日本的にも特異な経営をしている。村民の生活も多労働を必要とする栽培作物の関係からか,「嫁をやるなら高田にやるな,高田粟飯牛蒡の菜」と歌われるように貧しいものであった。他の産業としては,豊後行平の流れを汲むといわれる「高田鍛冶」が著名。近世には刀鍛冶6・普通鍛冶50~60(高田風土記)がいたといわれるが,大正5年は19,産額6,340円で主として稲刈・草切用の薄鎌などの刃物を製造。鎌の行商(入鎌師)も農間期の重要な企業で,豊後・日向一円,肥後・筑前・筑後・豊前にも販図を広げていった。しかし近代では泉州堺の片刃鎌にしだいに圧倒された(高田村志)。昭和25年の戸数430・人口2,640。同29年鶴崎市となり,所属大字は同市に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7231447