100辞書・辞典一括検索

JLogos

65

永冨名
【ながとみみょう】


旧国名:豊後

(中世)鎌倉期~戦国末期に見える名(みよう)の名。豊後国大分郡稙田(わさだ)荘のうち。七瀬川流域右岸で,霊山(りようぜん)の北麓秋岡から岡にかけての一帯と考えられる。大分市大字岡川・高瀬周辺。「弘安図田帳」に,稙田荘325町2反内として,「永冨名三十七町一反三百十二歩,同人(豊前大炊蔵人能泰法名道善)」と見えるのが初見。群書類従本は16町1反320歩とある。地頭能泰は,大友2代親秀の三男野津原三郎蔵人能泰(大友史料3)。大神氏系図によると,稙田氏7代忠綱が,大友(野津原)能泰の子朝綱(初名能基)を養ったが,朝綱幼少の時,忠綱の死により家臣間に抗争が起こったため,しばらく実父能泰が野津原城(鷲ケ城か)を管領したという。これによって能泰が地頭職を帯していた理由が窺えるし,また永冨名が吉藤名とともに稙田惣領家の所帯であったこともわかる。なお能泰の地頭職は一時的なもの。永冨名は中分され,元弘3年以来領家に分付された。下永冨名半分地頭職は,霊山寺執行職等とともに,建武4年9月足利尊氏から稙田大輔房有快に安堵された(霊山寺文書/県史料25)。有快は稙田有綱の三男で,上義名を伝領した有豪の6代目の孫に当たり,南北朝期には大友家の遵行使節として活躍する。終見は文禄元年3月の写である稙田荘名々給人注文で,「永冨名五十五貫分之事」とあるだけで,他名のように給人の名は見えない(利光文書/県史料26)。なお帯刀宮徳に宛てた大友宗麟安堵状に,「永冨名役職半分并名内給地田畠六反分」と見えるが(大神文書/県史料11),この永冨名が稙田荘内の永冨名であるかは確証がない。文禄の写は天正年間頃の内容と推察できることから,永冨名内の給人に帯刀氏の名が見えないのは,稙田荘永冨名でないことを示唆する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7232225