灘手村
【なだてむら】

旧国名:豊後
(近世)江戸期~明治8年の村名。豊後国国東(くにさき)郡安岐郷のうち。文禄4年前田玄以領,あるいは熊谷直陳領かは不詳。木付領であれば慶長元年杉原長房領,同4年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年木付(のち杵築)藩小笠原領,正保2年から同藩松平領。元和8年の「小倉藩人畜改帳」では,安岐手永に属し,長岡興長知行地,家数23・人数50,うち本百姓9,牛11,村高は204石余。「正保郷帳」204石余,「天保郷帳」「旧高旧領」360石余。灘手村は高台にある村で灌漑用の川もないので,多くの溜池を作り水田とした。さらに数枚の水田のみに用いる小さな溜池も各所に作られた。文化元年ごろ安岐郷に属した。庄屋は高橋家が代々勤めたが,のちに堀家と交替。堀家は2代目に明治維新となった。当村は西は大内山(おちやま)村,北は大添(おそえ)村,東は守江(もりえ)村に境して,南は守江湾に面する高台にある。江戸中期ごろから漁業をするものが出て,次第に海岸部に家を建てる者があった。幕末頃には海岸部を埋めて漁業者の集落ができた。水田には米と七島藺を栽培。農間余業に七島表(畳表)を織った。八坂社は織田信長の家臣高橋六郎左衛門が,守江村の王子島に宇佐神宮の分霊を奉遷し,さらに灘手村にも祠を建立したという。ほかに天満宮・大明神がある。菅相院光明寺は浄土宗知恩院末で,元禄9年開基,仁聞作という観音像がある。いぼ川地蔵は,川のほとりにあり,この川の小石でいぼをなでるといぼが消えるといわれ参詣者が多い。観音崎には観音・金比羅社・尺間社もある。明治4年大分県に所属。同8年狩宿(かりしゆく)村ほかと合併して守江村となる。現在の杵築市大字守江のうち。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7232367 |





