野津院
【のつのいん】

旧国名:豊後
(中世)鎌倉期~戦国期に見える院名。豊後国大野郡のうち。大野郡の東部。大野川の支流野津川の流域,現在の大野郡野津町に比定される。「弘安図田帳」に,「国領野津院 六十町 地頭職野津五郎頼宗〈法名阿一〉」とあるのが初見。律令制下では三重郷に属したらしいが,のち独立して野津院となった。その正確な年代は未詳。国衙の院倉が置かれたため野津院と名づけられ国衙の支配権が強かったため国衙領として存続したものであろう。大友親秀の子五郎頼宗が地頭職を与えられて土着し,野津氏の祖となり,吉岡・波津久・戸上・椎原・荒瀬・久土知・岩屋・佐土原・笠良木らの庶家が栄えた(大友氏系図)。室町期には大友氏は両政所を置き闕所地の打ち渡しなどを行わせた。明応6年3月佐土原兵庫助に対する野津院11貫500文の地の打ち渡しは善直衡・首藤守世が両政所として実施している(佐土原文書/県史料13)。その他室町・戦国期に大友氏から所領を与えられていた領主には,木付親忠(大友家文書録)・波津久忠兵衛尉(波津久文書)・沓懸駿河守・同左京亮(沓掛文書)・吉弘五郎左衛門(田原滝蔵文書)・吉岡弥五郎(大友家文書録)・神野(こうの)宮大宮司(広田文書)・田村三河入道・同三郎(大友家文書録)・清田鑑述(波津久文書)らがいる。由原八幡宮の武射給・灯油料所が郷内にあった(柞原八幡文書/大友史料24)。天正6年大友宗麟の日向遠征のころ,姻族である日向の伊東義祐が当院内東光寺に亡命していた。同14年10月頃島津家久が日向から侵入したとき,当郷の士柴田紹安は反逆して,島津軍に内通した。このとき,柴田は広田大膳亮・弾正忠以下を当郷王子山城に,柴田大蔵丞・利光宗玄・久土知刑部丞以下を岩瀬塁に拠って守らせた。広田以下は島津軍を反撃したが落城。その後広田らは各地で戦い,吉岡原で島津軍部将鬼塚刑部少輔・伊知地丹後守を討ち取った。柴田大蔵丞以下は島津軍に降服して城を白浜周防守に渡したので,広田らはこれを攻めて奪取した(大友家文書録/大友史料27)。戦国期大友宗麟のとき,キリスト教が伝播しキリシタンが多かった。天正6年頃当郷の領主レアンと妻マリヤは,「日本にある最良のキリシタン」となり,家族僕婢および家臣200人余が洗礼を受けた。レアンは自費で会堂を建てて多額の寄進をし慈善事業を行い,天正8年には宣教師の住院も建て,当時の信者は3,500人に達したという(耶蘇会士日本通信豊後篇下)。当時豊後で会堂のあったのは,府内・臼杵のほかは朽網(くたみ)(現直入町)と当地で,キリスト教布教の4中心地の1つであった(同前)。現在寺小路には磨崖クルスがあり,その他キリシタン墓などの遺跡が多い。なお大友義鑑の墓が到明寺跡にある。当郷の名は,文禄3年正月9日の由原山宮主坊抅分供田注文まで見える(柞原八幡文書/大友史料28)。近世初期も俗称として用いられ,正保4年の「豊後国郷帳」では,西神野村など47か村を,「野津之院」と記している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7232578 |