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戸次荘
【へつぎのしょう】


旧国名:豊後

(古代~中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。「べつき」とも読むか。豊後国大分郡のうち。大野川流域の戸次・判田・竹中・松岡を中心に,吉野・東稙田(ひがしわさだ)地区にまたがる。大分市東南部地域。治承4年5月11日の皇嘉門院惣処分状に,「ふこ うすきへつき」と見えるのが初見。戸次荘の成立および皇嘉門院領になった経緯は不詳。惣処分状によると,皇嘉門院から九条兼実の子良通に譲られることになっているが,良通が幼年であったため,最勝金剛院領に一時譲られている(九条家文書/平遺3913)。藤原忠通家の家司で政所別当であった源季兼が,康治2年以前から久安5年12月まで豊後国守の任にあったとき,最勝金剛院に寄進されたものかもしれない(兵範記,久安5年10月26日条・香取大禰宜家文書/平遺2856・九条家文書/平遺補69・本朝世紀,久安5年12月30日条)。元久元年4月23日の九条兼実置文によると,臼杵(うすき)戸次荘は本寺最勝金剛院領になっており,これを女院の死後は孫の道家に譲ることを条件として宜秋門院(兼実の子藤原任子)に寄進している(九条家文書/鎌遺1448)。ここに見える臼杵戸次荘は単独の荘園ではなく,臼杵荘と戸次荘の2つの荘園のことを指している。九条道家領となった戸次荘は,建長2年11月の九条道家惣処分状によると,九条禅尼家領とあり,一期の後は藤原教実の子宣仁門院(子)に譲与し,他に分給してはならないとなっている。また宣仁門院の後には九条忠家の子忠教に譲与すべしとなっている(九条家文書/鎌遺7250)。「弘安図田帳」によると,「戸次荘九十町,本家宜秋門院御跡,地頭職戸次太郎時頼,同次郎重頼,利根次郎朝親,各知行難存知」とある(大友史料3)。なお建武3年8月24日の左大将(九条道教)家政所注進当知行地目録によれば,臼杵戸次荘の領家職は九条家が帯している(書陵部九条家文書/岐阜県史料)。戸次荘は豊後大神姓戸次氏の本貫地であったが,戸次二郎惟澄には子供がなく,所領を大友初代能直に譲ったという(都甲文書/県史料9)。また大友松野系図では,大友2代親秀の子重秀に譲ったとする(大友史料32)。文和3年10月16日,戸次重親入道浄心は,戸次荘檀原村などを大友8代氏時に譲与し,安堵を請うている(大友文書/県史料26)。しかし貞治3年2月の氏時の当知行所領所職注進状案には,檀原村とともに譲られた由布院内の所領は見えるが,檀原村の名は見えない。また永徳3年7月の大友親世当知行所領職中にもない。ただ戸次荘切畑名とあるのは,永徳2年11月7日,料所として宛行われた戸次荘内松岡下野入道跡のことであろうか(大友文書/県史料9)。永和元年7月後円融天皇は臼杵・戸次両荘を妙心寺別当玉鳳院造営のため寄進する綸旨を出している(玉鳳院文書/大友史料)。室町期の戸次氏は将軍家奉公衆。下って天正14年豊後に侵入した島津勢は,戸次荘利光の鶴城を攻め,城主利光宗魚との間で攻防が行なわれた。大友義統は戸次荘内青蓮寺領を安堵し,また代官職を勝光寺に預けている。文禄2年6月11日の検地奉行山口宗永書状には,「豊後国大分郡へつき郷内としミつ村」と記している(高橋文書/県史料25)。これは大友氏除国後の太閤検地に係るもので,高橋右近に対し,逃散,高麗詰人夫など百姓の還住を命じたもの。県史跡楠木生(くすぎう)石造五重塔は,延文5年3月17日の造立で,施主は戸次荘寄住の平左近允幸広・資助施主として30名の名が見える。おそらく戸次荘の名主たちであろう。また門前には大友一族であり,大友氏の使僧でもある生善寺がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7233206