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勾別符
【まがりべっぷ】


旧国名:豊後

(古代~中世)平安期~室町期に見える別符名。曲の字も用い,また勾保ともある。はじめ豊後国大分郡津守(つもり)郷,のち津守荘のうち。大分川の支流一の瀬川流域。現在の大分市大字曲地区。地名は津守郷司勾六郎貞平が開発し,私領化したことによるものであろう。「宇佐大鏡」の国々散在常見名田の豊後国の条に見えるのが初見。田数36町7反180歩・畠3町・加地子米20石・津守荘加納半不輸・仮名内蔵冨近とある。同条によれば,寛治年間以前すでに津守郷司勾六郎貞平=仮名内蔵冨近の所領になっている。その後,大宰帥藤原伊房の任中,蔵司納物の代として大宰府に進められた。伊房は寛治5年6月宇佐宮の南麓宮曹司の東に建立した三昧堂の仏聖燈油料としてこれを寄進した。さらに伊房が三昧堂に寄進し,伊房はさらに名田分の公事・雑物を免除することを下知したが,本主貞平は国庁宣と称し名主等を陵轢したので,冨近名の名子(主か)等が訴えている。府政所は重ねて国司に命じて免除するよう下知している(宇佐大鏡/県史料24)。勾別符は冨近名とも呼ばれ,複数の名主を抱える領主的別符であった。建武元年の僧神賀三昧堂料所文書請取状案によると,文治5年社家施行,取帳17通,平治元年外題1通,府宣3通,訴状1通があったとするが現存しない(永弘文書/県史料3)。仁治2年の散田帳には,豊後国内の常見名田を「以東新庄」と呼び,勾別符もあげられている(到津文書/県史料30)。「弘安図田帳」には,津守荘勾保と見え,以後別符と保とが混同して史料に見える。田数46町1反300歩,地頭職勾兵衛次郎惟益法名智行同左衛門尉尚泰法名行日とある。「図田帳」や後醍醐天皇綸旨など外部からの史料には公領的性格を示す「保」を用い,宇佐宮側では私領的性格を示す「別符」を使用しているが,正長元年には「勾保」と表記し(永弘文書/県史料4),以後混同される。建武元年7月8日,勾別符は三昧堂料所として,衆徒雑掌神賀の沙汰するところとなるが,半分は田染(たしぶ)神主に知行させる契約状が作成された。田染神主に中分された半分は,以後御炊殿とも呼ばれる宇佐下宮の御供料所となる。永徳2年12月5日の某契約状によれば,「まかりのひう」の加地子4貫文は,宇佐の定米半分領家方弁として毎年8月中に受け取ることになっており,期日を過ぎれば相互の契約状によらずとなっている(永弘文書/県史料3)。応永20年8月30日には,永弘重輔は永弘擬大宮司普勇禅定門,同姓玄禅尼,子息玄用禅門の位牌田として,一期後7年から5か年間,勾別符からの料足2貫600文を某寺に寄進している。終見は永享2年5月3日の永弘光世譲状であるが,これは十九丸に下宮番長職と御采米のうち,勾別符分などを譲ったものである(永弘文書/県史料4)。




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「角川日本地名大辞典」
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