松武名
【まつたけみょう】

旧国名:豊後
(中世)鎌倉期~戦国期に見える名(みよう)の名。松竹名ともある。豊後国大分郡稙田(わさだ)荘のうち。所在地未詳。「弘安図田帳」に,稙田荘325町2反内として,「松武十六町二反半,松尾弥次郎惟泰跡,知行未分明」と見えるのが初見。松武名は隣接する阿南荘内にも松武名36町2反があり,地頭は松武本名8町5反分については「松尾弥三郎跡,当知行未分明」となっている。この点について,渡辺澄夫は「二豊荘園の研究」で,「同一の名田が他荘にもまたがり,同一氏が名主職(ないし地頭職)を帯していることは,畿内荘園の特色として注目されたが,九州地方にもこうした例の存在することは,名の成立を考える上にすこぶる興味が深い。……荘園成立期以前に,松尾(大神)氏が大分郡司職等を帯し,各郷に広大な名田を経営していたものかも知れない」と説明する。稙田荘に接する阿南荘には,松武名(本名など9名1村),松冨名・光一松名の3名がある。両荘の接点の地名は,乾元2年5月の阿南庄松冨名中分状案に見える地名と合致するものが多い(大友文書/県史料26)。それらの地名は,かつての東庄内村・南庄内村・谷村・挾間(はさま)村内に存在し,阿南荘松武名の中心とされる西庄内村・阿南村・由布川村との間に介在する形となっている。以上のことから松武名は両荘にまたがる名ではなく,別個の名と考えられる。地頭松尾氏について後藤碩田は,大神惟基二男太宰軍曹阿南次郎惟季五世孫松尾弥三郎惟光の子と比定している。松武については,松武は武松の誤りで,高松ではないかとしながらも,府内城下町松末もあげている。ともに誤りである。終見は文禄元年3月の写である稙田荘名々給人注文で,「一所三□五貫分寒田□,一所壱町かハら田石合」とある。おそらく天正年間の内容であろうと推察されるが,所在地比定に資する史料とはならない。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7233398 |





