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鹿児島藩
【かごしまはん】


旧国名:薩摩

(近世)江戸期の藩名。薩摩藩とも。薩摩国鹿児島郡鹿児島に居城を構え,薩摩国・大隅国の2国と日向国諸県(もろかた)郡の一部を領有した外様大藩。また,慶長14年からは琉球を支配下に置いた。島津氏は,鎌倉期に薩摩・大隅・日向の守護として下国し,以来南九州に覇を唱えた名族で,戦国期の混乱を貴久が鎮定して薩・隅・日3国を統一し,その子義久は鼎立する竜造寺氏・大友氏らを圧して北九州まで進出し,九州を席捲した。しかし,天正15年豊臣秀吉の九州仕置により,義久はやむなく秀吉に降伏し,薩・隅・日3国の旧領に戻された。秀吉による領地没収の危機をうまく免れた島津氏は,その後2度の朝鮮出兵,領内での伊集院忠真の乱(庄内の乱)などもきりぬけたが,義久の跡を継いだ弟義弘は慶長5年の関ケ原の戦で西軍に与して敗北,またも失領の危機に直面した。しかし,井伊直政らの助力により,三男家久(初め忠恒)が旧領を安堵され,徳川氏の統制のもとに1つの藩として出発することになった。以後,島津氏は,家久のあと,光久・綱貴・吉貴・継豊・宗信・重年・重豪・斉宣・斉興・斉彬・忠義と在封し,明治維新に至る。領知高は,年代により相違があるが,俗に77万石といわれ,金沢藩に次ぐ天下第2の大藩である。御朱印高は,京竿(文禄の太閤検地)によれば薩摩国31万3,253石余,大隅国17万5,057石余,日向国諸県郡内12万606石余の合計60万8,916石余,これに加えて新付の琉球一国(奄美諸島も含める)が寛永竿で12万3,700石余で,総高73万2,616石余であった。文禄検地はかなり粗漏のもので,度々内輪の総検地が実施され,慶長17年検地では総高73万2,157石余(うち琉球高11万3,101石余),寛永10年検地では総高69万6,321石余(うち琉球高12万3,712石余),万治2年検地では74万7,193石余(うち琉球道之島4万6,937石余,本琉球9万883石余),享保10年検地高は薩摩国30万8,293石余,大隅国25万5,085石余,日向国内15万7,661石余,道之島5万1,756石余,本琉球9万4,230石余の総計86万7,028石余である。ただし,享保10年のものは籾高である。正保3年3代将軍家光の知行方目録による領知高は,薩摩国31万5,000石,大隅国17万833石,日向国諸県郡内12万24石,琉球15島12万3,710石余の総計72万9,573石。寛文4年の朱印状では,薩摩国一円13郡258村31万5,005石余,うち伊作(伊佐)郡52村3万8,401石余・薩摩郡33村4万2,719石余・鹿児島郡27村3万339石余・日置郡48村5万1,648石余・阿多郡20村2万3,570石余・河辺(かわなべ)郡35村3万5,045石余・甑島(こしきじま)郡2村2,791石余・頴娃(えい)郡7村1万5,939石余・揖宿(いぶすき)郡7村1万6,857石余・給黎(きいれ)郡6村1万464石余・谿山(谷山)郡6村1万5,047石余・出水(いずみ)郡7村2万3,735石余・高城(たき)郡8村8,445石余,大隅国一円8郡230村17万833石余,うち菱刈郡13村9,986石余・桑原郡32村2万1,824石余・姶羅(始羅)(あいら)郡39村2万6,643石余・囎唹(そお)郡63村4万3,884石余・肝属(きもつき)郡38村4万2,015石余・大隅郡32村2万192石余・熊毛郡9村5,205石余・馭謨(ごむ)郡4村1,080石余,日向国諸県郡のうち164村12万24石余,以上薩・隅・日3国合計652村60万5,863石余,ほかに琉球国15島12万3,700石(寛文朱印留)。鹿児島藩では,過大な家臣団を抱えていたこともあって,すべての藩士を城下に集住させることはせず領内各地に居住させたが,これを外城(とじよう)制度または郷士制度という。領内2国1郡(薩摩・大隅2国と日向国諸県郡)を113の行政区画に分け,それぞれの政治的・軍事的拠点に藩士を配したのである。この区画は,古くは鹿児島城の外郭的防衛の支城という意味で外城と称されたが,天明4年以降は郷と呼ばれ,延享元年には薩摩国51郷,大隅国42郷,諸県郡20郷の計113郷があった。この諸郷居住の藩士を郷士と呼んだので,郷士制度ともいわれるのである。113郷は,一所持(いつしよもち)の私領(21郷)と藩直轄の地頭所(92郷)とに大別される。私領は,島津宗家の三男以下の支族家に宛行われ,一定の独自性を有して私領内を支配するもので,薩摩国に13,大隅国(種子島を含む)に7,諸県郡に1があり,諸県郡の1とは都城島津氏の私領である。各郷は数か村からなり,郷の中心に麓(府本)があり,郷を支配する地頭仮屋が置かれ,郷士(私領ではその家来)の大部分が居住した。地頭所を支配するのが地頭で,重臣が任じられた。はじめは各郷に赴任していたらしいが,寛永年間以降はほとんどが鹿児島城下に居住したまま任命された。これを掛持地頭といい,これに対して任地に赴任する者を移地頭といったが,のちには甑島・長島以外はすべて掛持地頭になった。諸郷には,地頭あるいは私領主が郷士・家来から任命する郷士年寄(天明3年以前は噯(あつかい))・横目・組頭を置き,地頭仮屋において郷内の行政を司らせた。郷士は各郷名を冠して吉田衆中などと称され,3~5組ぐらいに分けられ,組頭が各組の郷士を統轄した。これに対し,鹿児島城下に居住する武士は,鹿児島衆中・鹿児島士・城下士などと呼ばれた。郷士はその居住地において農業なども営んでいたことから,城下士から「一日兵児(ひしてべこ)」「芋侍」などと蔑視されていたが,両者は島津氏の家臣団として身分的序列などの違いはなく,農業を営んでいるだけに経済的には城下士より恵まれていたともいう。なお,私領の家臣団は家中士といわれる。「薩藩政要録」(文政11年の改編で,同9年現在の資料をもとにしている)によれば,薩摩国は51郷(うち13郷は私領),郷士3万1,169人・郷士人躰1万1,650人,惣高32万8,564石余・郷士高5万203石余(うち寺社高2,660石余),家中士1万3,007人・家中士人躰5,099人,家中士高1万5,697石余(うち寺社高1,810石余),用夫6万3,416・野町用夫1,091人・浦用夫1万5,054人・諸島用夫257人,大隅国は42郷(うち7郷は私領),ほかに屋久島奉行支配の屋久島があり,郷士1万9,157人・郷士人躰9,056人,惣高26万6,534石余・郷士高3万6,671石余(うち寺社高660石余),家中士9,932人・家中士人躰3,720人,家中士高1万8,824石余(うち寺社高1,354石余),用夫2万6,777人・野町用夫1,253人・浦用夫5,678人・島用夫1,184人,日向国諸県郡は20郷(うち1郷は私領),郷士1万43人・郷士人躰4,784人,惣高15万8,584石余・郷士高3万2,996石余(うち寺社高1,613石余),用夫1万969人・野町用夫753人・浦用夫887人,2国1郡の総計は113郷(うち21郷は私領),ほかに硫黄島・竹島・黒島・七島・屋久島,郷士6万369人・郷士人躰2万5,490人,惣高75万3,683石余・郷士高11万9,871石余(うち寺社高4,935石余),家中士2万7,336人・家中士人躰1万1,674人,家中士高4万7,789石余(うち寺社高4,471石余),用夫10万1,162人・野町用夫3,097人・浦用夫2万1,619人・諸島用夫1,441人,ほかに国司領の琉球国,取納代官支配の大島・喜界島・徳之島・沖永良部島があった。同書によって諸県郡内の各郷を少し詳しく見てみると,大崎郷は10か村(野方・横瀬・益丸・神領・永吉・狩宿・岡之別府・井俣・持留・菱田),郷士858人・郷士人躰384人,所惣高1万788石余・郷士高1,029石余,用夫1,644人・野町用夫72人・浦用夫82人,志布志郷は12か村(蓬原・町畠・夏井・伊崎田・原田・田之浦・野上・月野・内之倉・帖・安楽・野井倉),郷士1,002人・郷士人躰462人,所惣高1万3,707石余・郷士高3,832石余,用夫1,892人・浦用夫805人,松山郷は3か村(尾野見・泰野・新橋),郷士204人・郷士人躰97人,所惣高2,272石余・郷士高652石余,用夫287人・野町用夫8人,都城郷(都城島津氏私領)は26か村(後久・田部・鷺巣・早水・郡元・川東・宮丸・安久・寺柱・前川内・下長領・木之前・高木・金田・水流(つる)・山田・梅北・上長飯・野々美谷・横市・五拾町・西岳・中霧島・岩満・石寺・丸谷),衆(家)中士4,397人・家中士人躰2,351人,所惣高3万4,124石余・家中高1万3,267石余,用夫707人・野町用夫207人,勝岡郷は3か村(餅原・椛山・蓼地),郷士418人・郷士人躰125人,所惣高3,527石余・郷士高826石余,用夫438人,山之口郷は3か村(花之木・富吉・山之口),郷士288人・郷士人躰127人,所惣高4,262石余・郷士高1,001石余,用夫414人,高城(たかじよう)郷は7か村(石山・穂満坊・有水・大井手・桜木・東霧島(つまぎりしま)・四ケ),郷士472人・郷士人躰233人,所惣高9,810石余・郷士高1,792石余,用夫515人・野町用夫57人,穆佐(むかさ)郷は3か村(上倉永・下倉永・小山田),郷士347人・郷士人躰219人,所惣高3,878石余・郷士高1,435石余,用夫233人・野町用夫34人,倉岡郷は2か村(糸原・有田),郷士229人・郷士人躰120人,所惣高1,592石余・郷士高536石余,用夫255人・野町用夫33人,高岡郷は12か村(浦之名・田尻・向高・花見・五町・内山・高浜・南俣・入野・飯田・北俣・深年),郷士1,478人・郷士人躰749人,所惣高1万9,159石余・郷士高1万335石余,用夫1,396人・野町用夫158人,綾郷は2か村(南俣・北俣),郷士565人・郷士人躰300人,所惣高4,436石余・郷士高1,286石余,用夫169人・野町用夫20人,野尻郷は5か村(紙屋・三ケ野山・江平・笛水・麓),郷士620人・郷士人躰272人,所惣高4,047石余・郷士高1,326石余,用夫447人・野町用夫3人,高原(たかはる)郷は5か村(水流・広泉・蒲牟田・後川内・麓),郷士503人・郷士人躰173人,所惣高5,740石余・郷士高1,495石余,用夫571人・野町用夫10人,高崎郷は3か村(大牟田・前田・縄瀬),郷士318人・郷士人躰140人,所惣高3,732石余,用夫239人・野町用夫8人,小林郷は7か村(細野・堤・真方・東方・北西方・南西方・水流迫(つるざこ)),用夫745人・野町用夫75人,須木郷は1か村(須木),郷士470人・郷士人躰206人,所惣高1,128石余・郷士高579石余,用夫63人・野町用夫4人,飯野郷は10か村(末永・池島・大明寺・今西・上江・大河平・坂元・前田・原田・杉水流(すぎづる)),郷士550人・郷士人躰334人,所惣高1万791石余・郷士高2,721石余,用夫366人・野町用夫24人,加久藤郷は10か村(川北・栗下・榎田・東永江浦・灰塚・西郷・湯田・小田・永山・西永江浦),郷士442人・郷士人躰252人,所惣高8,929石余・郷士高1,053石余,用夫373人・野町用夫34人,馬関田郷は4か村(島内・浦・柳水流・川北),郷士182人・郷士人躰91人,所惣高3,194石余・郷士高352石余,用夫118人・野町用夫3人,吉田郷は6か村(昌明寺・亀沢・向江・岡松・水流・内竪),郷士319人・郷士人躰150人,所惣高3,604石余・郷士高395石余,用夫97人・野町用夫3人である。このうち大崎郷・志布志郷・松山郷の3郷は現在鹿児島県に属し,残りの17郷が宮崎県域である。以上の村名は鹿児島藩領内で一般的に用いられていた村だが,幕府に提出された郷帳類やその写(寛文4年日向国諸県郡村高辻之帳や元禄11年日向国覚書,天保郷帳など)に記載されている村名とは異なっていることが多い。表高と内高との関係と同様に,村名も幕府へ提出した村名と領内の行政上の村名とにかなり差異が生じていたのである。念のため「天保郷帳」に記載される鹿児島藩領分の村名(諸県郡のうち幕府領5か村・高鍋藩領6か村を除いた164か村)を列記しておけば,岡松・上下田・昌明寺・内竪馬場・亀沢・裏・高牟礼・柳水流・岡本・湯田・向名・島中・鶴田・東・中福良・中福良(2筆に記載)・長山・長山西・長江浦・吉・正原・今西・池島・栗下・灰塚・榎田・大明司・前田・坂本・原田・宮原・杉水流・大川平・須木・奈佐木・真方・北方・大豆別府・東方・水流迫・小林・三箇山・西方・細野・十日町・堤分・温水・高原・朝倉・蒲牟田・大牟田・入木・麓・笛水・宮原・前田・田尻・下川内・縄瀬・江平・東霧島・水流・下川内・石山・上川・大井手・穂満坊・下財部・岩満・岩満(2筆に記載)・薄谷・梶原・上中原・大西・水流・桜木・山之口・花木・富吉・石寺・餅原・勝岡・屋鋪・高木・金田・野々美谷・屋鋪・安永・前川内・今平・横市・五十町分・宮丸・河東・郡本・早水・椛山・原口・井蔵田・木前・鷺巣・寺柱・後挍・安久・田辺・屋敷・梅北・紙屋・漆野・去川・浦之名・柚木崎・高浜・小山田・蔵永・有田・倉岡・花見・飯田・田尻・向高・入野・内山・五町・広沢谷・北方・南方・切畑・大裏・目黒・深歳・樋渡・川上・樋渡・北俣・上床・山内・溝之口・下財部・下財部(2筆に記載)・大裏・中裏・新橋・尾野見・井崎田・田之浦・内之蔵・志布志・夏井・安楽・野井倉・今・堀内・原田・野神・益丸・横瀬・仮宿・永吉・藍之原・岡別府・持留・野方・槻野の各村である。このうち溝之口以下の村々は現在鹿児島県に所属し,その他の村々が宮崎県域である。外城制度とならんで鹿児島藩の支配体制の特色となっているのが,門割制度と呼ばれる村落支配の体系である。領内の村は,数戸の農家(家部(かぶ)という)からなる門(かど)と呼ばれる百姓集団に分かれ,10~100ぐらいの門で村を構成していた。各門にはその長として名頭(みようず)(俗に乙名ともいう)がいて門内を統轄し,門の一般構成員(すなわち家部の主人)は名子(なご)といわれた。門内の労働の主体は用夫(いぶ)で,15歳以上60歳までの男子百姓を用夫といって耕作・公役の義務が課せられた。藩は各門内の用夫数あるいは家部数に応じて門単位に耕地を配分した。これを門高といい,年貢収取の単位とした。耕地はこれをさらに一定の割合で各家部に割り当てた。門高は,一定年限ごとに割替え配当が行われ,これを門割と称した。また,人配(にんばい)と称し,人口過剰地帯からの移住も行っている。この門は,方限(ほうぎり)(組ともいう)という数個の地域群にまとめられて集落を形成するが,この方限の長を名主(なぬし)といった。耕地は必ずしも方限にとらわれず,村内各所に分散錯綜していた。そして,方限が集まって村を構成し,村には庄屋が置かれたが,庄屋は武士身分で,名主以下が百姓身分であった。漁村(浦浜)や町(麓町・野町・門前町)でも同様な制度があり,村での庄屋に該当するのが浦浜での浦役,野町(いわゆる在郷町)での部当(べつとう)(弁指(べんざし)),麓町での町役で,いずれも郷士がその任にあたっている。門は藩直轄の蔵入門と城下士や郷士の知行地として配当された給地門に大別され,知行主(領主といわれた)の支配権は強固であった。門百姓の負担は,正租を1名につき3斗5升を定納するほか,口米を正租3斗5升につき7合,役米(城や領主屋敷の修理用普請夫代)を高1石につき2升,代米(節句・盆・暮などの納物代米)を高1石につき1升,賦米(古くは殿役米といい,参勤交代や役人出張時の夫役代)を高1石につき1升1合を納め,合わせて高1石につき3斗9升8合を定納した。鹿児島藩では籾9斗6升を高1石としていたので,定納3斗9升8合といえば約8割に及ぶ重い租率ということになる。ほかに多くの雑税があり,さらに実際は10日ぐらいだが「月に35日の公役」といわれるほど苛酷な労役を徴用されたのである。この過重な収奪を可能にしたものが外城制度と門割制度を中軸とした強固な支配体制であったのであり,さらに藩はキリスト教のみならず一向宗(浄土真宗)の信仰をも禁止して領民の精神生活を統制し,あらゆる反逆の可能性をつみとったのである。この結果,安政5年の加世田郷小松原一揆以外,本土においてはついにめぼしい百姓一揆の発生をみなかった。なお,明治初年の神道国教政策に基づく排仏毀釈は,鹿児島藩領内ではとくに徹底して行われ,島津氏の菩提寺である福昌寺・南林寺なども例外とせず破壊され,存続できた寺院は領内に1か所もなく1人の僧侶も見なくなるほどだった。明治初年の「藩制一覧」によれば,草高86万9,593石余,琉球国高を引いた残りは77万5,363石余,貢租収入は現石26万1,056石余,現穀2万6,986石余(ただし士族知行1名につき現穀8升1合を税米とす),砂糖509万斤余(ただし琉球国ほか諸島の貢米を砂糖に換える),菜種6,077石余,楮9万6,776貫匁余,麻苧2,877斤,雑税銭15万9,796貫文余,戸数17万4,528・人口89万6,808(男48万9,460・女40万7,348),うち士族の戸数4万3,119・人口19万2,949,琉球国の戸数1万3,513・人口7万2,703である。人口のほぼ4分の1を武士とその家族が占めており,一般の藩では5~6%といわれるのに比べると,比較できないほど多かった。明治4年廃藩置県により鹿児島県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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