河内
【かわち】

旧国名:日向
九州山地中央部,五ケ瀬川上流左岸の山間地に位置する。東から北にかけて赤川浦岳・崩野(くえの)峠・国見岳など1,000mを超える山々がそびえ,それらの山に発する河内川は地内中央部を流れ,やがて田原(たばる)川に合流して五ケ瀬川に注ぐ。地内小河内・栃屋・佐土原・奥鶴・丸山の円墳や横穴古墳は田原古墳として県史跡に指定されている。中でも奥鶴古墳の箱形石棺から出土した短剣の鐔と刀子の鞘口には鹿の角に直弧文の模様が彫刻され,貴重品として保存されている。地内の熊野鳴滝神社の参道石段の右手にあたる有藤家の宅地内に大イチョウがあり,国天然記念物に指定されている。高さ27.7m・根まわり8.5m・目通り幹まわり7.35m,枝が東西に24.5m,南北に23.8m張り出している大木である。地名の初見は,天正18年の「竿前御改書上帳写」(矢津田文書)に「一,高三百五拾六石余 河内」とあるものだが,南北朝期興国7年4月の宇治惟澄申状や菊池武光書状案に「高千穂河内次郎四郎」という当地名を名乗る武士が見える。戦国期の当地は高千穂領主高千穂氏(のち三田井氏を称す)の支配するところであり,奥鶴には三田井氏の臣甲斐将監の居城亀頭山城があった。天正19年延岡藩主高橋氏によって,三田井氏は滅亡,その時仲山城の宿直であった岩井川村石山城主有藤玄蕃頭は討死するが,その遺児を家臣が守って河内に落ちのび,その子孫が今の河内の有藤氏と伝える。その後亀頭山城は高橋氏に臣服しなかったため,文禄3年高橋氏は兵を派してこれを攻めたので落城して,城主甲斐将監は河内に討死したと伝え,その墓は村の中央興善寺跡にあり,碑文に文禄3年甲午8月29日「還秋山浄翁大禅定門霊位」とある。高橋氏失脚後延岡藩は有馬氏領となるが,有馬氏は藩境に御番所を設けて出入品に課税し奥方日向御前(徳川家康孫)の化粧料にしたという。その御番所の1つが河内番所で,日向・肥後・豊後3道の分岐点に設けられ,今もその遺跡が認められる。その後三浦氏・牧野氏・内藤氏と領主は交代するが,この御番所は明治維新になるまで続けられ,関守として延岡藩士と高千穂郷士とをあてた。3国の交通の要路にあたり,かつて元亀3年木崎原の合戦で一敗地にまみれた佐土原(さどわら)・都於郡(とのこおり)城主伊東義祐が,豊後に亡命の途次,大友氏からの救護の手がのびるまで,敗残の身を数日間伏せていたのもこの河内村であった(日向記)。
【河内村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【河内(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7234797 |





