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北町
【きたまち】


旧国名:日向

(近世~近代)江戸期~現在の町名。昭和32年からは1~2丁目がある。江戸期は延岡城下7町の1町。五ケ瀬川に沿って東西に走る3つの町の1つで,延岡城の東側に位置し,北は五ケ瀬川に面し,南は中町に接する。慶長8年延岡城の築城と同時に造営された(延陵世鑑)。町の規模は,東西長138間・道幅1間半,ほかに北町横町として南北長19間半・道幅1間の町並みがあった(延岡城/日向郷土史料集6)。町役人として別当・乙名などが置かれていた。延享4年頃の「延岡町中竈数人高寺医師酒屋並牛寄帳」(明治大学蔵内藤家文書)によれば,本竈店借共120軒,男女合計465人,寺2か寺(三福寺・誓敬寺),酒屋8軒(石見屋清兵衛・府内屋忠六・石見屋理兵衛・松屋四郎右衛門・豊後屋新兵衛・室屋太郎兵衛・さつまや又七・松屋権平)とある。延享4年の「指出帳」によれば,北町別当は秦豊六,後見は今井宗四郎とあり,別当給地9石を出北村にもち,名字は牧野氏が藩主の時代から許されている。また乙名伝次郎,同新兵衛は町役御免で赤米10俵宛を給され,掛屋の北町室屋太郎兵衛も赤米5俵で差上銀として215匁を上納している。入津問屋富山久米太郎は帆別銀として1反に付き1匁5分宛の取立を許されたが,このうち5分と運上銀を1艘に付銀3匁宛上納,その他月番小触は赤米3俵の給付となっている。さらに石見屋小田家は「本〆方頭取格」となって藩財政を牛耳り,藩の重役層なみの460石を受けているが,小田家の先祖は高橋氏の家臣で,高橋氏改易後も延岡に留まり土着の商人になったという。同家は東・西・南・北4家に分かれて営業したが,中心をなしたのは西小田清兵衛家で,その後安永4年以降は同族経営となり西小田家が総本店となった。清兵衛は延享4年藩主が牧野氏から内藤氏への交替時に大坂資本と結びつき,以後大坂資本を背景として回漕業や物産問屋を営み,しだいに醸造業,山林業へと経営を拡大,とくに宝暦7年~天明8年には「稼方請負」を許され椎葉山木材伐出事業で巨額の利益を得て藩内随一の豪商になった。また小田家は天明7年須怒江村を「知行之内百石之代也」として受け取り,延人足4,500人,費用およそ550両をかけて復興し,この復興事業を通じて北川山林経営に乗り出した。その後しだいに製炭事業へと拡大し,製炭事業は小田家経営全体の中で材木に代わる中心的地位を占めるに至った(日向諸藩木炭生産の構造と展開)。小田家の事業経営は藩内のみでなく佐土原(さどわら)・高鍋・豊後国岡の諸藩にも及び,財政的援助も行っているが,高鍋藩では文化9年小田家に知行4人扶持を与え士分待遇としている。当町にはほかに,寛永年間藩主有馬直純の許可を得て北方村二股,北郷村宇納間で木炭山を開発し,延岡の木炭山の鼻祖とされた岡村太郎兵衛がいる。太郎兵衛はのちに助兵衛と改め室屋と号し酒造業も営んだ。さらに天和2年に船宿を許可された越中屋太郎右衛門もいる。幕末期の人口は,文政11年327人,弘化4年355人,文久元年354人,慶応2年310人(御領分宗門人別勘定帳/明治大学蔵内藤家文書)。五ケ瀬川には寛文7年百間橋(のちの板田橋)が架けられて元町と通じ,南町の今井又四郎が渡り初めをしたという(延陵世鑑・県旧延岡略記)。延享4年の「当町中指出帳」(明治大学蔵内藤家文書)には,元町の万太郎が板田橋掃除人として1人扶持を与えられている。板田橋について,高山彦九郎の「筑紫日記」にも寛政4年7月13日の項に「北町石見屋か前を経て百間橋を渡らむとするに少シ破れて船渡し」あるいは「元町百間橋にて船を渡る,川幅七十五間」などと見え,「伊能忠敬測量日記」にも文化7年4月8日の項に「板田橋巾六十八間」などとある。さらに本草学者賀来飛霞も「高千穂採薬記」の弘化2年3月16日の項に「市中ニ北ノ川流レ百間橋アリ,昔ハ壮麗ナル橋ニテ観ルニ足レリト云,今ハ仮ニ平ナル板橋ニテ反リナシ,故ニ七十間ホトアリト云,此橋洪水数出テ歳ニ七度マデ流タル事モアリト云,今ノ橋ハ市中ノ匠人相共ニ献スル処ト云,之ヲ構スルニ二日ニシテ成ルト,其材ハ官ヨリ賜ナルヘシ」と記している。町内の寺院について,「県史蹟調査」7によれば,誓敬寺は浄土真宗大谷派本願寺末で,高橋元種が豊前国香春から延岡へ移封に際し香春岳善竜寺住職行信に寺地を与えて創建し,寛永11年11月に東北山誓敬寺の号を得た。その後天明7年には中町へ移され,明治3年11月南町光勝寺へ併合,同13年1月もとに復したとある。なお「有馬三代考」では開基は教信とあり,もと北町にあったが天明7年中町に移り,大正9年に旧恒富村の新小路に移転したとある。浄土宗知恩院末三福寺は,「県史蹟調査」7によれば,有馬左衛門尉直純が肥前国高来郡日江の城主の時に演蓮社智誉上人幡随意白道大和尚を開基として創建し,有馬山観三寺と号して同氏の菩提所とした寺で,慶長19年延岡へ移封の時に当地に移して二岸山白道寺と改称した。その後元禄5年有馬氏の越後国糸魚川移封(後,数年にして越前丸岡に移る)に際し山寺号を同所へ移したため,その跡地に九品山三福寺を建てたという。また三福寺は内藤氏も代々の菩提寺としている。明治5年の学制施行により第5大区第26番中学区に属した。同12年4月28日に当町を調査した「日向地誌」には,北町は岡富村の字地の1つとして見え,「中町ノ北ニ接ス,街衢東西ニ達ス,人家百二戸」と記されている。同15年1月28~29日には大火があり,当時の郡役所宿直日記によれば,28日午後8時に中町よりの出火により中町・南町のほとんどが焼失,北町も20戸ほどを残すのみという状況であった。このため元町・博労町の酒場で炊き出しを行い,光勝寺・三福寺では罹災者の救助にあたり,南町の警察署は小田清兵衛抱家へ一時移ったという。同21年の戸数77・人口447,反別は宅地2町余,諸税および町村費の納入額は国税1,116円余・地方税212円余・町村費56円余であった(郡行政/県古公文書)。明治22年延岡町,昭和8年からは延岡市に所属。明治22年その通称地名となり,昭和5年からは町名となる。昭和32年一部が中央通1~3丁目・東本小路となり,同時に岡富・中町の各一部を編入。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7234860