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国富荘
【くどみのしょう】


旧国名:日向

(中世)平安末期~室町期に見える荘園名。日向国宮崎・児湯(こゆ)・那珂3郡にまたがる。安元2年2月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書/平遺5060)には「日向国富」と見え,国富荘は鳥羽天皇の第3皇女八条院暲子の所領となっていたことがわかる。八条院領は,平氏政権下では平家領(平頼盛領)となっていたとみられるが,治承・寿永の内乱によって平家没官領として収公されて後,頼朝が池禅尼の計らいで一命をとりとめた事情から,寿永3年4月6日源頼朝下文案(久我文書/平遺4153,吾妻鏡元暦元年4月6日条)によって池大納言平頼盛に安堵されている。建久8年の「日向国図田帳写」によれば,八条女院領国富荘は田数1,502町,一円荘1,382町と寄郡120町からなる大荘園であった。宮崎郡内には,地頭平五の所領として加江田80町・加納200町・大田100町・左右恒久100町・隈野80町・吉田30町・源藤6町・鏡淵60町,また地頭土持太郎宣綱の分として国富本郷(宮崎市本郷北方・本郷南方・郡司分)240町,今泉30町がある。那珂郡内には,那珂200町・田島破40町・袋15町,児湯郡内には,佐土原(さどわら)15町・倍木30町・新田80町・下富田130町があり,いずれも地頭は土持太郎宣綱であった。また,寄郡には児湯郡内に穂北郷70町・鹿野田郷50町があり,ともに地頭は土持太郎宣綱であった。国富荘内の土持宣綱の所領は900町にのぼり全体の60%に相当する。荘域は大淀川以南と一ツ瀬川流域の2地域に大別できる。鎌倉後期の島津荘荘官等申状(薩藩旧記前編7志布志鹿屋権兵衛兼治蔵書/鎌遺16843)には,嘉禄3年8月14日造宇佐宮用途を日向国が懈怠に及んだ際,国富荘・穂北郷・鹿野田郷それぞれに将軍家御教書が発せられたと見える。穂北・鹿野田両郷への発給は,両郷が荘園と国衙両属の寄郡であることを背景とするものであろう。嘉元4年6月12日永嘉門院使家知申状并御領目録(竹内文平氏所蔵文書/日向国荘園史料1)には,国富荘は歓喜光院領になり泰継朝臣が相伝知行し,富田郷は高階氏領となっていることが見える。在地の動向をみると,那珂郷では正和3年9月12日某袖判下文(郡司文書/日向国荘園史料1)には,極楽寺備後律師慶覚の譲状に任せて国富荘内那珂郷五分一知行分の上荘官職と恵平薗を日下部万却丸に安堵したと見える。また,正慶元年10月2日沙弥某安堵状(同前)には,沙弥某が国富荘那珂郷公文職と屋敷・名田畠・給分などを那珂九郎盛連に安堵し,さらに,正慶元年12月15日地頭代僧某書下(同前)には,地頭(北条氏)の命をうけて地頭代が那珂盛連に対し那珂郷五分一の地の百姓の公事徴収と那珂氏の給分地以外での年貢の弁済を求めていることが見える。また,元亨元年8月5日沙弥道鏡譲状(伊予西福寺文書/日向国荘園史料1)には,国富荘内富田郷内の屋敷・畠を「まこ一御てん」に譲与したことが見える。在地では,領主の分割相続が進行していた。元弘3年,北条氏滅亡後の状態を示している足利尊氏・直義所領目録(比志島文書/日向国荘園史料1・神奈川県史資料編3上)には,国富荘は北条泰家(北条高時の弟)の旧領であることが知られ,鎌倉末期国富荘地頭職は北条氏の手にあったことがわかる。鎌倉幕府の滅亡により,国富荘は足利尊氏の所領に変わった。この事態をうけて,建武元年3月4日,高師直は「国富庄那賀郷公文職」を那珂盛連に安堵したと見える(郡司文書/南北朝遺10)。この文書は,検討の余地のある文書とされているが,鎌倉末期の状況から考えても考えられることと思われる。さらに,建武2年3月1日,足利尊氏は北条高時一族の冥福を祈るために国富荘内石崎郷を丹波国安国寺である光福寺に寄進している(丹波安国寺文書/日向古文書集成,南北朝遺223・大日料6-2)。建武2年11月建武政権内部で新田氏と足利氏の対立が顕になり,この余波が日向国にも及んでくる。建武3年2月7日土持宣栄軍忠状(土持文書/日向古文書集成・南北朝遺408・旧記雑録前1・大日料6-2)によれば,新田義貞の「祗候人」(被官)伊東祐広一族が,建武2年12月に国富荘に乱入したと伝えている。この退治のために,大隅の禰寝重種・清種らは北朝方として伊東祐広・肝付兼重の拠点である「国富庄太田城」に発向している(建武3年11月21日日向国国大将畠山義顕証判禰寝重種軍忠状/日向古文書集成・大日料6-3・旧記雑録前1・南北朝遺788・789,建武4年4月23日畠山義顕証判禰寝清道軍忠状,池端文書・肝付文書/日向古文書集成,大日料6-3,旧記雑録前1,南北朝遺917・918)。しかし,在地の混乱は続いており,建武5年3月13日日向国国大将畠山義顕は,土持宣栄に対して「国富庄河北」(那珂・児湯両郡域の国富荘の一ツ瀬川流域)への軍勢の発向を命じている(土持文書/日向古文書集成・南北朝遺1147・大日料6-4・旧記雑録前1)。しかし,建武5年9月20日,同年10月3日畠山義顕軍勢催促状(土持文書/同前,南北朝遺1255・1261)は,土持氏に宛てて,国富荘の名主・庄官たちが,南朝方の肝付氏方にも北朝方にも属さない状態にあることを記している。こうしたなかで,暦応2年5月9日,足利直義は「国富庄内田野城」での小串重行の軍功をたたえ(九州大学文学部所蔵小串文書/南北朝遺1337),また,日向国国大将畠山義顕は,南朝方の肝付兼重与党が暦応2年正月26日,国富荘田野別符の浜城に籠ったが,2月14日落城したことで,暦応2年9月2日,那珂盛連の軍功をたたえている(郡司文書/南北朝遺1396)。暦応2年8月後醍醐天皇の崩御により菩提寺の建立がもちあがり,暦応3年5月,日向国国富荘を天竜寺に寄進することがもちあがり(天竜紀年考略/続群27上),暦応3年6月15日足利尊氏は国富荘を天竜寺に寄進し,さらに,同年7月16日足利尊氏は国富荘田島郷を山城物集女荘の替所として大光明寺に寄進している(天竜寺造営記録/日向古文書集成,南北朝遺1532・1552・大日料6-6)。さらに,康永元年8月25日夢窓疎石袖判補任状(郡司文書/南北朝遺1843)によれば,天竜寺の夢窓疎石は,「日向国々富庄那珂郷郡司職」を那珂盛連に安堵し,さらに康永4年2月26日夢窓疎石袖判補任状(大光寺文書/南北朝遺2095・日向古文書集成)によれば,夢窓疎石は国富荘河北穂北郷山島津寺院主職を元能房に宛行っている。元能房は,文和5年3月18日,穂北郷山島津寺職免田畠・山野・屋敷を大光寺の正法庵に譲っていることが知られる(大光寺文書/日向古文書集成)。また,文和元年のものとおもわれる6月吉日の乾峰士曇書状(同前)には,国富荘が天竜寺領として安堵された旨を,大光寺に伝えている。こうして,天竜寺領化した国富荘では,康永4年6月21日都聞妙了請文(山城石清水八幡宮文書/南北朝遺2121・大日古4-6)によれば,国富荘内佐土原郷を天竜寺は石清水八幡宮の山井権別当法眼昇清に宛行っており,新田郷の用水と殺生禁断は石清水八幡宮が毎年30貫文で天竜寺から請け負っていることが知られる。一方,在地では,丹波国安国寺の光福寺領である国富荘内石崎郷で伊東又六の違乱が続いており,観応3年9月3日室町幕府将軍足利義詮は,安国寺の申し出を請けて,一色直氏に対して伊東又六の違乱の排除を命じている(丹波安国寺文書/日向古文書集成・大日料6‐17)。さらに,南北朝内乱の進展のなかで,延文5年11月13日一色範親預ケ状(相良家文書/日向古文書集成・大日料6‐23・大日古5-1)には,一色範親が「日向国々富庄北加納郷参分壱地頭職」を相良孫五郎に兵粮料所として預けていることがみえ,また,貞治元年12月23日畠山直顕証判治部大輔某預ケ状(郡司文書/日向国荘園史料1)には,国富荘那珂郷内本符が料所として那賀乙一に預けられていることが見えるように,国富荘が兵たん地としての役割を担わされていたことがわかる。最後に,永徳3年11月12日夢窓疎石臨川寺三会院遺誡写(黄梅院文書/神奈川県史資料編古代中世3上・大日料6-5)には,臨川寺三会院の用途に上総国伊北荘内佐古田郷と日向国国富荘内南加納の年貢をもってあてることを暦応2年5月に決めたことがみられ,その後,貞和2年には天竜寺領となっていることが知られる。天竜寺は,室町期の天竜寺の寺領を示しているとみられる天竜寺領目録(鹿王院文書/広島県史古代中世資料編5・神奈川県史資料編古代中世2,3上)に「日向国国富庄」を記しているが,応永2年5月7日室町幕府御教書(天竜寺重書目録/今川了俊関係編年史料下・大日料7-2)は,九州探題今川了俊に命じて,日向国国富荘内での押領人の退去を行わせ,下地を天竜寺雑掌に渡すように命じており,在地領主の下地支配の進行のなかで寺領支配は困難な状況になりつつあったとみられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7234913