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塩路
【しおじ】


旧国名:日向

石崎川支流新名爪川左岸に位置し,東は日向灘に面する。天正6年1月,島津氏に敗北した伊東氏は豊後に逃れ,日向は島津氏領国となった。こうしたなかで,同年1月30日,島津氏は日向の在地衆への所領安堵・宛行を行うが,この日,土持相模守に対して「日州三ケ村之内御手洗之村十町之坪付」を与えている。そして,2月1日,土持相模守は島津氏に対して鎧・甲を送り,その礼を述べている(日州御発足日々記/旧記雑録後1)。御手洗之村は現在の宮崎市塩路の御手洗をさすものとみられる。下って,天正16年8月4日豊臣秀吉朱印状(島津安芸守久雄文書/旧記雑録後2)によれば,豊臣政権は佐土原の島津豊久に対して都於郡(とのこおり)院300町をはじめとする日向国979町の地を安堵したが,その中に「ミたらい」10町が見える。また,天正11年閏正月16日,島津氏支配下の宮崎地頭上井覚兼は,「帆村」に足をのばしていることが知られるが,さらに,同年7月26日には「穂村」の住吉神社の遷宮が終わったため住吉社の的場で弓興行を行うために穂村に向かっている。この帆(穂)村とは,おそらく,住吉社からして宮崎市塩路・御手洗の住吉社付近を呼んだものであろう。「神祇拾遺」によれば,地神五代の垂跡した社として,葺不合の神の地を「日向宮崎住吉神社」と記す(続群3上)。天正12年7月18日,覚兼は宮崎城内で下北方の寺僧や穂村衆とともに踊り,また,同13年4月4日には,穂村衆に「伊勢物語」を読み聞かせて,教導している。また,穂村には瀬戸山大蔵丞という有力な衆中があり,同14年10月7日,島津家久の息豊久が宮崎を訪ねた際は穂村の瀬戸山大蔵丞宅を宿として利用している(以上,上井覚兼日記)。宮崎地頭領に属していたものとみられる。
塩路村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
塩路(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7235126