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東霧島
【つまぎりしま】


旧国名:日向

霧島山高千穂峰山麓から東に連なる長尾山を主体とした山地の東麓に位置する。地名の由来は,霧島山東方発心門(三国名勝図会)の地であり,東の端を「つま」ということから,東霧島の呼び名が起こった。高崎川の河岸段丘地や台地では古代の住居跡や祭祀遺跡が発掘調査され,青磁器・祭祀土器・勾玉などが発見された。東霧島大権現宮の神域地で,神祠の外誦経所跡が各所にある。東霧島神社は伊弉諾尊を主殿に,天津彦火瓊瓊杵尊・木花開邪姫命・天津彦火火出見尊・豊玉火火姫命・鸕鷀草葺不合尊・玉依姫命などの相殿6座と,神日本伊波札日比尊の8神が祭神。霧島六所権現宮の1社である。境内各所の10末社には,伊弉冊尊をはじめ23神を祀る。「延喜式」神名帳にある式内社霧島社は,同社だとされている。第5代孝昭天皇代に創建されたと伝え,伊弉諾尊の帯刀十握剣が御神体とされる。境内の故有谷(ゆやだに)に,十握剣で斬ったとされる割裂神石がある。応和3年に天台宗の性空上人が,参籠中に社殿を再営した。上人はこの神域地に本尊を千手観音菩薩とする別当寺を開基し,金剛仏作寺とした。上人は境内内外の各所に諸仏の祈祷所を設け,射場には薬師堂と真照碑を造立した。また霊巌本岩戸権現下の厨子では,護摩の修行をした。金剛仏作寺に花園天皇直筆の勅旨寺号額が掲げられたが,寛永5年9月25日の霧島山炎上の災禍で焼失した。文禄・慶長の役で,島津義弘・忠恒(家久)の渡海軍に従軍した及瑜法印が,帰国後に東霧島権現社の再興を図り,金剛仏作寺を真言宗派寺に改めた。この頃院号は錫杖院であった。歴代の宮司や住持・参籠祈祷者が,生前中の願修供養で建てた鎌倉期以降の卒塔婆がある。歴代鹿児島藩主の寄進物もある。古文書は応永16年島津久豊の立願状,文正2年島津立久の寄進状,延徳4年島津忠昌の朱印状,天正16年島津義弘の願書などがある。慶長4年の庄内の乱発生で,島津忠恒は鹿児島から軍を進め,金剛仏作寺を本陣とした。背後の長尾山「陣の端」に周囲50間の築堤を構え,守りを固めた。仏作寺から東南東3町に仁王堂があった。この仁王堂付近の攻防戦は激しく,伊集院軍は撃退された。仁王堂から南南東1町50間の所に通り堂があって,その上方長尾山側に射場がある。忠恒の弓術稽古場である。鬼と石段,大楠・橘の木,鳩,神石,故有谷,長尾山,十握剣などの神話伝説の豊富な所である(道中記)。
東霧島村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
東霧島(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7235494