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土呂久鉱山
【とろくこうざん】


西臼杵(にしうすき)郡高千穂町岩戸の土呂久川に沿った山あいにあった鉱山。藩政期,佐渡金山・但馬銀山と並び称されたほどの銀山で,大正から昭和にかけ錫と亜砒酸の生産を行い,昭和37年に閉山。昭和46年に鉱毒事件が表面化して,世間の注目を集めるようになった。夢買い長者の伝説で発見されたのが,この土呂久だとされ,土呂久の地名についても「僻遠の地」「急流の音がとどろく」「渡鹿または猪鹿」「ポルトガルの技師ヨセフ・トルフ」に由来するなどの諸説があるが定かではない。豊後の森田三弥之助宗勧が江戸初期に開発し,ポルトガル人の技術者をつれてきて採掘・精錬したという。銀を中心に銅や錫も産し,多い時は400人の鉱夫が住み,500~600戸の世帯があり,2,000人も居住したという。江戸期は幕府直轄となり,旗本が派遣され,大勢の供を連れ銀山奉行が視察に訪れた。やがて延岡藩の領有となるが採鉱を中止,明治維新後は20~30人の鉱夫で細々と採鉱されていた。亜砒酸製造は,明治中期竹内令によって始められたが,本格化したのは大正9年頃からで,同11年から昭和9年までは佐伯市の川田平三郎氏が経営した。そのあと昭和10年から中島飛行機の系列に入り,中島門吉が土呂久鉱山を買い取った。また,昭和10年には,東岸寺に錫製錬所を新設し,亜砒酸と錫の生産を行った。錫は,昭和16年に製錬所が火災になり,同18年に錫整備令の適用を受け,亜砒焼も昭和17年までで中止し,ダンビュライトの採鉱のみ行われた。錫鉱は最盛期に年産3万6,000t,亜砒酸は,昭和15年の283tを最高に,年産約140tであった。第2次大戦後の昭和25年,中島鉱山は操業を再開し,同30年から亜砒酸製造も住民の反対をなだめて再開した。しかし,昭和33年に坑内の出水事故があって以来経営が悪化し,鯛生鉱業系列になり,同37年に中島鉱山は操業を停止して土呂久を去った。戦後8年間の亜砒酸生産量は年平均67tで,ピークは昭和36年の111tであった。買鉱や資本,役員などで,中島鉱山や鯛生鉱業と深いつながりをもっていた住友金属鉱山は,昭和42年に鉱業権を取得し,探鉱などを実施していたが,同46年に鉱毒被害が告発されたので,同48年鉱業権をすべて放棄して廃山となった。昭和46年,岩戸小学校の斎藤正健らが日教組教研集会で報告したのを契機として鉱毒被害が世間に知られることになった。鉱毒の原因は,採掘した硫砒鉄鉱を原始的な焙焼炉で精製する過程で排出された排煙・鉱滓,坑内水に混じった砒素や亜硫酸ガス,その他の重金属が,直接・間接に人体に影響を与えたものである。大正9年操業開始とともに被害が現れ,ミツバチ・牛・川魚・シイタケなどの被害にはじまり人体に及び,皮膚・気管支・胃腸・肝臓・神経などの全身症状を示し,佐藤喜右衛門一家7人をはじめ多数の患者が死亡した。住民組織である和合会を通じ,会社が少額の煙害料を出しているが,ほとんど放置されていた。告発後,行政は放置されていた焙焼炉や鉱滓の保全や住民検診などを開始し,昭和48年には,土呂久地区の慢性砒素中毒症を第4の公害病に指定した。昭和61年の認定患者は141名,うち死亡者41名である。宮崎県知事は,患者と住友金属鉱山の間に立って斡旋を行い,平均310万円で82名が補償金を受け取った。しかし,皮膚と鼻と神経症状だけに限定した低額斡旋に反発した患者23人は,最終鉱業権者住友金属鉱山を相手取り,1人3,300万円の損害賠償を求める訴訟を昭和50年宮崎地裁延岡支部に起こした。昭和59年3月,原告の半数13人が判決までに死亡するという8年3か月の長い審理を終え,患者の主張をほぼ認め,棄却の1人を除き22人に3,300万~3,400万円の支払いを命じた。この判決は,全国6,000~7,000人の休廃止鉱山の被害者救済に大きな影響を与えるものと思われる。しかし,住友金属鉱山は,稼行なき企業に責任なしと,直ちに控訴し,現在福岡高裁宮崎支部で審理中である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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