東平下遺跡
【ひがしひらしたいせき】

児湯(こゆ)郡川南町川南字平下に所在。弥生時代末から古墳時代初頭にかけて造営された周溝墓群。海岸線から3kmほど内陸寄りで標高約90mの唐瀬原台地北端に立地し,すぐ北側は名貫川の形成する河岸段丘へと下っている。日向中央部に広がる原(ばる)と呼ばれる台地上では,赤ホヤ層に掘りこまれた遺構の黒色埋土が耕作時に鋤きかえされ,遺構の輪郭を表出させる。これに留意した遠藤学氏により10基の周溝墓が確認されていたが,耕作による削平が進行するため,1号円形周溝墓を県教育委員会が昭和55年1月に,2号方形周溝墓を町教育委員会が同56年3月に発掘調査した。径15.5mで,石囲い木棺を内部主体とする1号円形周溝墓は,周溝墓群の東端に位置し,副葬品として直刀1振をもつ。周溝から,供献品と考えられる装飾高坏,複合口縁壺,鉢,器台等が出土した。周溝墓群の北西端に位置する2号方形周溝墓は,南辺中央に陸橋を有し,東西15m,南北13mの規模をもつ。内部主体は隅丸長方形墓壙に組合式木棺を収めたもので,陸橋正面,台状部中央に位置し,長軸はほぼ東西をむく。木棺は,長さ約175cm,幅約50cmの規模をもち,両側板で木口板を押さえるタイプのものである。内部主体に副葬品はなく,周溝底から壺2個体が出土した。1つは複合口縁壺で,1つは単口縁壺である。これら1号・2号周溝墓の土器は,弥生後期後半に位置づけられる下那珂式に後出するもので,東平下周溝墓群の造営された時期は,宮崎平野土器編年Ⅵ期にあたる弥生時代末から古墳時代初頭頃と考えられる。区画墓の隔絶,単体埋葬化のみられる東平下周溝墓群のあり方から,周溝墓が,日向中央部においては当初から首長の墓制として受容されたことを示している。また,内部主体が組合式木棺であることは非常に畿内的な様相であり,九州地方の周溝墓の多くが在地色の強い箱式石棺をその内部主体としているのに比べ著しい特徴である。調査後,1号周溝墓は埋め戻して,2号周溝墓は埋め戻したあと原型に模して復元し保存が図られている。1号の遺物は県教育委員会で,2号の遺物は町教育委員会で保管(東平下周溝墓群・2号方形周溝墓/川南町文化財調査報告1)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7235822 |





