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松井用水路
【まついようすいろ】


新井手用水または,赤江用水とも呼ぶ。宮崎郡清武町木原の清武川下流約1kmの地点に水源を求め,大淀川南岸の宮崎市郡司分・本郷南方・本郷北方・恒久・田吉などを灌漑する。灌漑面積約200ha。寛永17年松井五郎兵衛により完成されたもので,「日向水利史」によると,松井五郎兵衛儀長は,飫肥藩清武郷(大淀川南岸の赤江地方8か村が清武郷に属していた)の人で,儀長は清武郷が220haも水田があるのに,水利の便が悪く毎年水不足で,わずかに天水を待って播種植付けをするのを見て,深くこれを憂い救済の志を起こした。そのためには,川に堰をつくり用水路を引くのがよいが,大淀川は大河で堰をつくれないし,清武川から引くとすれば,途中に須木田の岡があるし,仮にこれを通しても赤江側の方が土地が低くないと水が流れない。儀長は,実地調査をして計画をたて,藩主に許可願を出したが,なかなか許可が下りなかった。儀長は,満潮時に大淀川の方が清武川よりずっと上流まで海水がさかのぼり,赤江側の方が低い事もわかっていたので,責任は一切私が負い,もし失敗したら割腹してでもと願いでてようやく許可を得た。寛永16年12月工事にとりかかり,最大の難工事須木田岡の幅2.4m,長さ500mのトンネルも突貫工事で掘り抜き,翌17年3月通水式をあげることができた。水路の長さは約4km(現在は幹線だけで6km),これにより灌漑される田地は200haを超し,さらに剰水を利用して開田するもの445haに及び,これにより干害から免れることができた。五郎兵衛がこの工事を終えた時は71歳の高齢で,その後静かに余生を送り88歳で没した。現在,水路のかたわらに,その徳をたたえる石碑が残っている。井堰は粗朶がらみ三段式といわれるもので,洪水のたびに流失・復旧を繰り返していたが,昭和7年に玉石コンクリート堰に,用水路もコンクリート舗装に改築し,受益面積559haになった。しかし,第2次大戦時に赤江飛行場(現宮崎空港)用地として大部分が買収され,戦後一部農地にもどったが現在の受益面積は約200haとなり,赤江土地改良区が管理している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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