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美々津
【みみつ】


旧国名:日向

耳川右岸から石並川流域にかけて位置し,東は日向灘に接する。石並川左岸は東西に細長い丘陵地帯。耳川の河口にあたり,海岸と並行して沖合いに七ツ八重岩などの岩礁があるため,古くから船泊りの地となっていた(日向地誌)。神武天皇が東征する際,ここより船出をしたという伝説があり(日向雑記),「延喜式」の美禰駅は美弥の誤写で,当地のこととされている(日向国史・地名辞書)。当地には立縫の里という別称がある。これはこの地にて神武天皇が船出に際し,立ちながら衣のほころびを縫ったからといい,立縫の舞という芸能も残っている。また,船出までに楯その他の武器を準備した土地で楯縫の里と称したともいう(美々津郷土誌・県史蹟調査)。地名の由来は,神武天皇船出の港として御津(みつ)といったのが美々津と転化したとも,神武天皇船出の際,妃は日向国に残ったがその時手研耳命と研耳命の2人の皇子が名残を惜しんで,皇子の名の1字「耳」を船出の港の名として残したとも伝える(美々津郷土誌)。そのほか神武東征に関する伝説が多い。たとえば,毎年旧暦8月1日の早朝,短冊を飾った篠竹をうち振り,子供たちが町並みを「起きよ,起きよ」と呼びまわって町民を起こす「おきよ祭」の行事があるが,これは天皇の船出の日取りが急に変更され,「起きよ,起きよ」という神の声で人々は起き上がり,かねて用意の奉祝の旗を押し立てて浜辺に馳せ集まったという故事にちなんだものという。船出が急に変更になったのでかねてから献上するはずだった団子が間に合わず小豆の蒸したものと米粉をねり混ぜたものを献上したといわれ,これが今日いう「つきいれ餅」であるという。また美々津港の沖合いには八重と黒八重という岩礁があるが,ここを天皇が通り,再び帰ってこなかったので古来,この岩礁の間を船は通らないという(県史蹟調査・日向市の歴史)。昭和29年縄文時代の竪穴住居跡が発見され,そのほかに漁労用の網や100個以上の石錘も見つかっている。また,字房之下には4基の古墳が所在し,昭和14年美々津古墳として県史跡に指定されたが,昭和29年頃美々津小学校の通学道路を開削した際に道路敷となって取り壊された。このうち3号墳の石棺は尾鈴山石英斑岩の柱状の自然石をそのまま両側と前後に並べて棺の身とし,蓋も同じ石を並べたもので,棺内からは金環8と須恵坩1が発見された。4号墳からは須恵坩1・須恵坏26・管玉4・鉄鏃4などが発見されている。当地は古くから港としてにぎわいをみせ,室町期には日明貿易港としても発展していたことが知られ,江戸中期の元文5年には洪武通宝240枚が掘り出されたとの記録がある(美々津郷土誌)。美々津の海岸は尾鈴山系の低い山地が迫り,石英斑岩の柱状節理が各所に見られる名勝地だが,地内の旧家橋口氏の庭園はこの柱状節理の奇勝を巧みに取り入れて作られた古い庭園で,天文年間の作庭と伝えられ,昭和32年県名勝に指定された。橋口家は天文年間から続く旧家で,代々真言宗長福寺の住職を勤め,明治初年の排仏毀釈で神道に変わって祖霊社の神官となった。庭園は祖霊社本殿の左側にあり,裏山の岩壁を背に池と石組みと樹木がみごとに調和した美しい庭園である。
美々津(中世)】 戦国期に見える地名。
美々津町(近世)】 江戸期~明治22年の町名。
美々津村(近代)】 明治22~31年の児湯郡の自治体名。
美々津町(近代)】 明治31年~昭和29年の児湯郡の自治体名。
美々津(近代)】 明治22年~昭和29年の大字名。
美々津町(近代)】 昭和30年~現在の日向市の町名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7236134