宮崎県
【みやざきけん】

(近代)明治6年1月15日~同9年8月21日の県名。明治4年7月14日の廃藩置県により日向国内には江戸期の各所領を継承した諸県(延岡・高鍋・佐土原・飫肥(おび)・鹿児島・人吉・日田の各県)が設置され,同年11月14日の府県再編成によりこれらの諸県が廃され大淀川以北の美々津県と以南の都城県(大隅国6郡も含む)との2県に整理統合されたが,さらに同6年大隅国を除いた都城県と美々津県が合併し,日向国全域を管轄する宮崎県が成立した。管轄地域は,臼杵(うすき)郡・児湯(こゆ)郡・那珂郡・宮崎郡・諸県(もろかた)郡の5郡で,村数372,幅員は東西17里余・南北40里半,北は大分県,南は鹿児島県,西は白川県(のちの熊本県)と鹿児島県に接し,管内を15大区85小区に分けた。参事には旧美々津県参事福山健偉,権参事には旧都城県参事村上行徴が任命された。当初は旧富高県庁を仮県庁とし,飫肥・都城・延岡に支庁を置いたが,県庁を県中央部に設置する必要から明治6年2月仮県庁を宮崎郡上別府村(現宮崎市)の戸長所に移して県庁舎新築に着手し,翌7年2月に竣工した。また,これに先立つ明治6年5月,管内区画を12大区76小区に改定した。同年の調査による管内の反別は臼杵郡8,795町余・児湯郡9,300町余・那珂郡1万869町余・宮崎郡4,464町余・諸県郡2万3,878町余の合計5万7,307町余,元高は旧延岡県6万1,121石余・旧高鍋県6万4,651石余・旧佐土原県3万3,247石余・旧飫肥県6万1,113石余・旧鹿児島県15万7,015石余・旧人吉県522石余・旧幕府領2万7,870石余・旧旗本領1万2,599石余の合計41万8,137石余(日向国史下)。明治8年1月1日の調査によれば,戸数8万1,732・人口38万4,071,職業別人口は官員12・神官200・兵隊256・医者298・農業19万7,537・工業2,884・商業2万1,206など(同前)。置県後3年7か月,宮崎県の歩みもようやくその緒についた明治9年8月21日,当県は鹿児島県に合併されることになった。これは全国3府35県に整理された全国的な府県統合の一環で,県庁は鹿児島県の支庁となった。廃県の翌明治10年の西南戦争後の経済的疲弊と人的損失,同13年3月徳島県の高知県からの分県再置などを契機として,日向にもようやく鹿児島県からの分県独立の気運がきざしはじめた。有志による分県運動は,演説会,鹿児島県令への請願,県会への働きかけなどを通じて次第に盛りあがった。同15年12月,政府は調査委員を派遣して調査に当たる一方,鹿児島県会は議長名をもって「鹿児島県下日向国分離ノ建議」を内務卿に提出して陳情に努めた。その建議は「凡ソ薩隅ニ州ノ便トスル所ハ日州ノ不便ヲ招キ,日州ノ利トスルモノハ他ニ州ノ不利ヲ来ス。是地勢風土ノ然ラシムル所ニシテ地方前途ノ方向,自治ノ成果ヲ妨ケ相共ニ不幸ヲ来スハ,知者ヲ待タスシテ知ルヘキナリ。是実ニ三州人民ノ利害ニ関スル甚大ナリトスル所以也」と述べている。こうして日向人の分県運動はようやく結実し,明治16年5月9日太政官達をもって宮崎県の再置が決定した。その布達に「今般其県を置き,日向国諸県郡の内〈志布志郷・大崎郷・松山郷〉を除き同国一円管轄せしめ候」とあるように,管轄区域はもと日向国(旧宮崎県域)のうち取県郡志布志郷・大崎郷・松山郷を除いた地域である。そして,6月30日鹿児島県令渡辺千秋と宮崎県初代県令田辺輝実のあいだで,鹿児島県から宮崎県への引継ぎが行われた。現在の宮崎県はここに発足した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7236158 |