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米良街道
【めらかいどう】


宮崎市から児湯(こゆ)郡西米良村に通じる街道。現在の国道219号に相当する。先に宮崎県が決めた愛称ロードの米良街道はこれである。昔の米良街道は2つの往還に分かれていた。佐土原(さどわら)城下から尾泊(おどまり)までの米良往還と,それから先,西米良村村所(むらしよ)を経て人吉城下(熊本県)に延びる球磨(くま)往還である。米良往還は佐土原城下から黒生野(くろうの)・妻・杉安を経て尾泊に至るものと,巨田(こた)・潮(うしお)・長谷(はせ)を経て尾泊に達する2コースがあった。両者は笹ノ元で一緒になり尾泊へと向かう。現在,この辺りは営林署の林道として整備され車も通るが,重畳と連なる九州山地を一望する眺めはすばらしい。近くに建つ初瀬山長谷寺は,中世末期の日向に権勢を誇った伊東氏が,京をなぞった開発の一環として再興したと伝えられる。その伊東氏が島津氏との抗争に敗れ,豊後に落ち延びる時にたどったのが皮肉にもこの道であった。笹ノ元には自害して果てた女たちを弔う姫塚があり,悲しい歴史をしのばせてくれる。尾泊は標高約500mで一ツ瀬ダムの南東に当たる山の尾根にある。ここは佐土原往還の終点であり米良荘への玄関であった。宮崎県歴史の道調査報告書によれば,当時ここには店や宿屋があってにぎわい,常時数頭の馬もいて物資の交換も盛んであったが,現在は廃屋2軒を残すのみという。球磨往還はここから始まる。越野尾に下り小川川の谷を遡行して小川に達する。小川は米良の領主菊池氏が本拠とした場所で,今も城跡や墓地が残る。小川から村所へのコースは天包(あまつつみ)山(1,188.8m)越えとなる。同山は米良三山の1つで,往還は山頂の少し下手で標高約900mの鞍部を通っている。この天包山越えは西南戦争の古戦場で,西郷側にくみした佐土原隊が防戦した際の弾痕が今も岩肌に残るという。現在の米良の中心地村所は,ここから一気に下った所にある。高山彦九郎や日本地図の編纂者伊能忠敬が通り,「日向地誌」の編者平部嶠南もこの道を通っているが,いずれもその岨道の険しさを述べている。しかし,現在この道は川沿いの道となり,米良街道の愛称も得て沿道修景の整備も進みつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7236220