沖永良部島
【おきのえらぶじま】

(近世)江戸期~明治41年の広域地名。永良部ともいう。奄美諸島南部に位置する。面積94.5km(^2)の低平な島で,周囲は数段の隆起サンゴ礁からなり,多数のドリーネ・鍾乳洞が発達している。鹿児島藩直轄領。郷には属さず,はじめ取納代官,元禄4年からは沖永良部代官の支配下に置かれた(薩藩政要録)。行政区画は,はじめ大城・喜美留・久志検の3間切,安政4年和泊・東・西の3方,明治20年からは和泊・知名の2方となる。慶長14年鹿児島藩の琉球征服8年後の元和2年徳之島に初めて代官を置き,沖永良部島および与論島を兼ね治めさせている。島内行政区画は琉球服属時代の制を襲用し3間切とし,与人3名を置いて万事を処理せしめた(沖永良部島沿革誌)。「琉球国郷帳」「天保郷帳」はともに大城・喜美留・徳時の3間切としているが,安永元年の人別調査では徳時間切の代わりに久志検間切の名が見え,両者の関係は不明。検地は万治3年。間切役所(与人役所)は仮屋のある和泊村に置かれ,与人1・間切横目2・田地横目2・山方横目1・目指1・筆子1・掟役6・作見廻若干がいた。安永元年の人口は,大城間切3,509人,久志検間切3,839人,喜美留間切3,970人。寛政元年天然痘流行。文化6年8月より同7年4月まで大旱魃が打ち続き,田畑作職不出来の凶作年となる。同年はしか流行。嘉永元年大山に山神建立。同6年の島政改革では,男子15歳以上60歳までの現夫2,194人の出夫は年に8~11日・9~12日回りとなり,農事に働くことを得た民の喜びは限りなかった。また日用必需品の購入官買,年貢米は砂糖換納となり,売官の風が粛正され,品行方正才能ある者は島吏に挙用の途が開けた。安政元年生産砂糖は全部三島方の買上げとなる。同3年の砂糖凶作ではわずかに84万斤を産し,五穀甘藷もまた不熟,蘇鉄をもってようやく露命をつないだ。安政4年の行政改革による与人役所は,西方は上城村,東方は芦清良村,和泊方は和泊村にあり,与人・間切横目・田地横目・黍横目・津口横目・筆子・書役等の役職が置かれた。文久元年島政改革以来人夫を高額に賦課して植えた甘蔗地583町歩は,さらに開墾により63町9反3畝歩増植し,翌春砂糖206万斤を得,古来初めての産額となった。同3年冬,初めて全島に種痘を実施。明治3年与人土持政照は,同僚と協議し在番の許可を得て備荒貯蓄の方法として社倉を創立。人口は,寛政12年9,508,ほか遠島人70・禅王寺住職1,天保2年9,598,ほか遠島人76,弘化2年1万636,ほか流罪人124・島居付5。戸数・人口は,安政6年2,094戸・1万1,975人,ほか流罪人95・流罪人居付1,明治3年2,348戸・1万4,337人,ほか流罪人46・島居付女1,同19年3,288戸・1万8,517人。明治5年戸籍調査新法にて実施,宗旨は全島禅宗となる。同年鹿児島県第93大区となり,和泊方・東方・西方を3小区とし1小区限り宅地番号を接続。戸数3,000余,人口1万4,727。同6年与人を戸長,間切横目を副戸長と改称。同7年金銭融通を開始するため銭5万貫(銅銭1枚は120文の価格)を無期限にて下渡。同8年鹿児島県に所属。同年上下ともに苗字を用いることおよび服装の制について布達。同10年全島に新しく16の仮学校を創設,和泊校を加えて17校となる。同年警察官が初めて派出され,巡査派出所と称す。同12年大島郡に所属。同17年徴兵適齢者が初めて大島に出頭して検査を受け,4年分の壮丁264名。同19年11月の暴風波では,潮害はなはだしく民家流失,甘藷は枯損し蘇鉄の雑食にて露命をつないだ。同20年3か方は和泊と知名の2方に改められ,のちの町村制の基幹となった。同21年稲作は不作で6割の減収となったが,甘蔗は無類の豊作であった。同23年非常災害自保の備米費として政府から1,012円50銭が下渡され,和泊方・知名方の人口をもって割り当て,モミ1升金4銭替をもって買入れ社倉高倉に貯蓄。同年先に糖業改良資金を10か年賦にて政府より拝借のところ80か年賦に改めた。同年大阪商船会社と契約し航海補助費を与え毎月1回各島と鹿児島の定期航路を開く。同27年戸長役場に登記所設置。同30年従前から米・砂糖で行ってきた貸借取引を今後は金銭にて行うよう全島協議にて決定。戸数・人口は,明治21年和泊方1,645戸・8,830人,知名方1,680戸・9,730人,同35年和泊方1,611戸・1万591人,知名方1,771戸・1万23人。明治37年エラブユリの圃場栽培開始。同41年和泊・知名郵便局間に電話開通。同年和泊方18か村は和泊村,知名方18か村は知名村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7236913 |





