日置北郷
【ひおきほくごう】

旧国名:薩摩
(中世)鎌倉期~南北朝期に見える郷名。薩摩国のうち。文治3年3月,平重澄寄進状で寄郡から島津荘一円領へ寄進された。同時に寄進された伊作郡は伊作荘と呼称されるが,当郷は名称を変えなかった。しかし,内容上は荘園であり,伊作荘と対にされるため日置荘と通称されることもあった。本所は近衛家,領家は一乗院,下司は平重澄の一族で,地頭は島津荘惣地頭の忠久にはじまり,のちその庶流伊作家島津氏が小地頭となった。日置北郷の一部は宇佐弥勒寺領荘園日置荘となっており,他に新御領と称される地もあった。建久8年の薩摩国図田帳には,宇佐弥勒寺領の1所として「日置荘三十町 同北郷内下司小野太郎家綱」,島津荘一円領のうちの没官領の1所として「日置北郷七十町 本郡司小藤太貞隆」と見える。元亨4年伊作荘とともに下地中分が行われ,南を地頭,北を領家が所領とした。その中分線は「西は帆湊の海より,東にむかい川に沿つて登り苦田橋に至り,その橋より南へ仮屋崎の東道を世戸へ,千手堂の前の道を東へ,久留美野の大世多和を通り,東へ向かい伊集院堺の七曲の道へ至る」というもので,付図によれば,吉利(よしとし)名を横断する人為的な中分線であった。この中分線の千手堂と久留美野間の南側に地頭所があり,さらにそれに接し領家政所があった。そして同図には山田名・古垣名・山里名・吉富名・吉利大夫入道跡・若松薗・恒吉薗などの名田・薗名や新御領,弥勒寺領なども描かれており,当時の地形・地名などについての,また下地中分についての重要な資料となっている。ちなみに,この中分線の現在地比定については,苦田橋から千手堂間の比定地をめぐって2つの説がある。この後,南北朝期には伊集院地頭島津忠国らに抑領され,のちその勢力下に入ったようである。戦国期には山田の領主山田氏が所領としていたが,天文年中に至って伊作家島津氏の支配下となった。ところで,鎌倉期には日置北郷内の島津荘一円領と弥勒寺領荘園(日置荘)とは別のものとされていたが,その後は両者一体のものとして扱われていたかのごとくである。また,建久3年10月22日付関東御教書案に初見する「新御領名田」は,同御教書案では日置南郷・日置北郷・伊作荘などとともに阿多宣澄が平家方の張本であったためその所領を没収されたものという。日置北郷とほぼ同一の性格を有したのであろう。元亨4年に伊作荘・日置北郷で下地中分が行われた際,同じく中分され,南方は地頭分,北方は領家分となった。新御領の中分は「八幡御前放生会馬場」をもって境界線とされ,八幡社の付近は馬場の通りを東西に通すこととした。この八幡社は,日置郷の惣社八幡とされた宮下鎮座の八幡神社である。新御領の下司は日置北郷下司の兼帯であるが,領家・地頭については史料がない。この新御領ものちには日置北郷のうちに含まれたものであろう。比定地は,日置北郷がほぼ日吉町域に相当し,弥勒寺領日置荘が北東部,その中間に新御領があった(以上,旧記雑録・島津家文書1・伊作荘史料)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7238829 |