100辞書・辞典一括検索

JLogos

44

姫木城
【ひめきじょう】


旧国名:大隅

(中世)南北朝期~戦国期に見える城名。大隅国曽於(そお)郡のうち。姫城城とも書き,比売之城などともいう。熊襲や大隅隼人の拠点といわれ,あるいは桂姫や大隅国司大中臣阿曽麿・伊賀麿が居館としたという伝説がある(国分郷土誌)。中世には大隅国在庁官人で曽於(曽野)郡司であった税所氏一族の姫木氏が居城とした。南北朝期,建武5年3月23日の藤原(重久)篤兼軍忠状によると,建武4年11月29日肝付兼重は野辺盛忠・矢上高澄・伊集院忠国・谷山隆信・知覧院忠世らと重久篤兼を攻めている。また同文書には建武5年3月18日,肝付兼重らが再度,重久氏を攻めたため,篤兼に味方する当城や橘木城の軍勢が救援に赴いたことも見えている(重久氏家蔵文書/旧記雑録)。永和3年9月,島津氏久は税所氏を攻め,当城を落として本田親治・氏親父子に預けた(御領日州大田原村新助蔵本・氏久公御譜/旧記雑録)。この時,当城奪回のために迫った税所軍に対し,奮戦した本田側の碇山左衛門が力余って切りつけた石を金吾石といい,現存している(国分郷土誌)。室町期の文安年間には島津忠国に敵対していた本田重経(恒)・河俣孫太郎が当城を根拠として激戦となったが,文安5年と推定される12月29日付島津忠国書状には当城攻略の有様を「抑今月廿九日,姫木城ニ罷登候間,石原口ニ勢を残候処,敵方二手ニ懸候て大儀之合戦候,思程切勝候,始は河俣か居而候東之さす尾より金語石まで被切籠」と述べている(旧記雑録)。文書中の石原口とは当城の大手門に当り,金吾石を経て,本丸に至る。下って戦国期には,「貴久公記」「箕輪自記」などによれば,天文17年本田董親が島津氏に背いたので,9月伊集院忠朗らは本田董親が拠っていた清水城を落としたが,島津忠良は今までの本田氏の勲功により董親の罪をゆるしている。しかし,董親は再度背いたので,伊集院忠将,樺山幸久らが攻め,本田董親・親兼を日向の荘内に敗走させた。そして10月14日,島津貴久は清水において論功行賞を行い,伊集院忠朗を姫木地頭に任命している(同前)。この後,当城は右馬厩忠将から以久へと引き継がれた。当城は国分平野北部に位置する山城で,現在の国分市姫木に当たる。北側は税所一族の重久氏の居城であった橘木(たちばなき)城と隣接している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7238906