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綾門大道
【あやじょうおおみち】


那覇(なは)市首里城正面を通る道路。方言ではアイジョウウフミチと呼ぶ。崇元寺から観音堂に至る大道を登りきったところに建つ第一坊門の中山門から,第二坊門の守礼門を経て,王城正面の歓会門までの大路をいう。綾門とは赤く塗られた美しい門の意。中山門を下綾門,守礼門を上綾門と呼称したことから一般に綾門大道と呼んだ。中山門の名は,尚巴志王(1422~39在位)の冊封使柴山が「中山」の扁額を懸けたことにちなむ(旧記)。門は守礼門と同型同寸で,現在の首里寒川町1丁目4番地と首里山川町1丁目54番地の間に建っていた。はじめ板葺であったが,康煕20年(1681)に瓦葺に改められた(球陽尚貞王13年条)。第二坊門の守礼門は中山門から約1世紀遅れて建てられたものである。綾門大道は王府時代第一の道路で,道幅は約12m,道の両側には高い石垣が連なり,路面は琉球石灰岩の石粉を厚目に敷き詰め,ネナシカズラのつき汁をまき固めて舗装した道で,夏は涼しく冬は暖かく,雨天にもぬからなかった。嘉靖13年(1534)来琉の冊封使陳侃は「牌坊一座有り。扁して中山と曰ふ。此れより以往,路皆平坦にして九軌を容るべし。旁に石墻を塁ね,亦百雉の制の若し」と記している(使琉球録)。「ペリー訪問記」にも高い木造の門(中山門)に続く大通りは美しく舗装されて道幅も広く,両側には高い石垣が連なっていたと見える。道の南側には美連御嶽・御客屋・安国寺・玉陵(たまうどうん)・天界寺が連なり,北側には中城御殿・大美御殿,その他名門の屋敷が並んでいた。守礼門の南東からは沖縄本島南部への要路真珠道(まだまみち)がのび,入口にはイシジョウ(石門)と呼ばれる石積みの門構えがあった。綾門大道では国王一代に1度催されたアイジョウウーンナ(綾門大綱)の綱引きや毎年正月には「とり出し」といって競馬が行われた。また旧暦7月10~13日まで道いっぱいに年1度の露天市が開かれ,近郊からの盆用の物産が商われた。この市は昭和12・13年頃の戦時体制強化期に入るまで続いた。中山門は明治12年の廃藩置県後老朽化し,明治41年5月に52円で首里区寒水川(そんがわ)の住民に払い下げられ,翌6月に撤去された。第2次大戦後に復元運動も起こったが実現していない。現在綾門大道は県道50号の一部として整備され,御客屋と天界寺の跡は閑静な住宅地に変わり,世子殿・大美御殿の跡は県立首里高校の敷地となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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