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円覚寺
【えんかくじ】


那覇(なは)市首里当蔵町2丁目にあった寺。臨済宗。山号は天徳山。本尊は釈迦牟尼仏。第二尚氏王統の菩提寺として,弘治5年(1492)着工し,同7年に完成したもので,京都南禅寺僧芥隠を開山とする(肇創天徳山円覚禅寺記/由来記,球陽尚真王16年条)。「おもろさうし」巻5-72,No.283には尚真王が円覚寺を造営し,聞得大君がその創建を崇べている。首里城のある丘陵の北斜面を西向きにほぼ3段に開いて建てられ,建物のある内囲いの敷地1,080坪余は,前面に高さ2.4m,厚さ約2mの石垣を築き,残り3面は土留めの石垣をまわして外周のエンカクジマーチュー(円覚寺松尾)と呼ばれる林域と区別し,山林の周りをさらに石垣で囲み,寺域は正面を除き三方は二重の囲いになっていた。創建時の規模は,荒神堂・寝室・方丈・仏殿・法堂・山門・両廊および僧房,厨庫・浴室などがあった(同前)。正面西向きの石垣のほぼ中央に総門,その左に千鳥破風の左掖門,右に唐破風の右掖門があり,ともに石造破風屋根である。総門から奥へ,放生池・山門・仏殿・竜淵殿を一直線上に配してあった。総門は円柱入母屋造り,3間2面の八脚門で,左右に仁王像を配し,中央に両開き桟唐戸を設けてある。放生池に架かる放生橋は弘治11年の架設で,閃緑岩の勾欄の柱には正逆蓮座の上に子連れ獅子,羽目板には雲鶴・亀・牡丹・蓮華などの精巧な彫刻を施す。橋を渡り,3段と14段の石段を登ると山門である。山門は円柱3間2面,入母屋造りの楼門で,左右に切妻屋根の回廊があり,楼上には観音と十六羅漢を安置した。山門の奥の仏殿は,円柱,5間5面入母屋造りで重層屋根であった。仏殿は鎌倉円覚寺舎利殿と構造手法が酷似していた。天井の枡組は白・黒・朱で彩色し,床は甎を敷いた。仏殿中央の須弥壇に釈迦三尊木像を安置し,中尊の前には三面三方牌を安置し,背後の壁には金剛会図の彩色画が描かれ,その裏壁に東面して普菴禅師の彩色板軸が掛けられていた。仏殿奥の向かって左の隅に三宝大荒神と三州護法韋駄天の2像,右の隅に大帝大権修利菩薩・掌簿判官・感応使者の3像を安置した。仏殿の後庭を隔てて基盤を一段と高くした竜淵殿(別称大殿)がある。竜淵殿は円覚寺最大の建物で,角柱,9間6面,単層入母屋造りで,鬼瓦を配した沖縄唯一の建物であった。この殿には創建当時,虚空蔵菩薩の木像を安置していた。竜淵殿は康煕60年(1721)に失火で焼失したがただちに再建され,同年大殿中央壇に仏像を安置し,左右に先王七世以下の神位を奉安した。失火により住僧覚翁は八重山へ流罪となった(球陽尚敬王7年条)。雍正6年(1728)に仏殿の北隣の御照堂(宗廟)を廃して大殿を宗廟とし,中央の壇に第二尚氏王統の始祖尚円王,左右の壇に先王の神位を昭穆の制に従い安置した(球陽尚敬王16年条)。仏殿の北隣に南面して,円柱,単層入母屋造りの獅子窟があった。この建物は円覚寺創建時に宗廟として建てられ,御照堂と呼ばれたが,雍正6年に宗廟を竜淵殿に移し,のち改修して獅子窟と改名した。内部は白壁に甎敷床で,南面する奥壁一杯に壇を設け,仏像,開山の芥隠像,歴代住持の屏牌を安置した。獅子窟の西隣に軒を接して下御照堂(俗称ウシ堂)があった。この建物は隆慶5年(1571)御照堂の別棟として建てたもので(球陽尚元王16年条),南面し,5間5面の単層切妻造り。宗廟を大殿に移したのち改修して法堂僧を住まわせた。大殿の南に軒を連結して庫裏があった。仏殿と山門の間の南寄りに鐘楼があった。円覚寺創建時は放生池の南側にあったが,乾隆9年(1744)亭寮・照堂寮を寺の南の空地へ移し,その跡地に移した(球陽尚敬王32年条)。鐘楼は円柱,3間2面袴腰,入母屋造り。鐘は弘治9年在銘のものがあったが,康煕36年に再鋳した(由来記)。鐘楼の南に垣を隔てて行堂があった。行堂は使令や撞鐘の役をする者が住む堂で,雍正11年の創建(球陽尚敬王21年条)。寺の内囲いの地盤より5~6mほど高くなっていた東側の林の中にもとは荒神堂が立っていた。荒神堂の北の碑文と南の碑文の2石碑が残っていた。円覚寺は第二尚氏王統先王の菩提のために建立されたもので,「琉球神道記」は釈迦牟尼仏道場の1つに挙げ,「由来記」に末寺15を記す。円覚寺では,正月の社参・御甲子御祈念・恵日御拝,4月の灌仏会,7月の七夕行幸・施餓鬼などをはじめとして,多くの参詣と行事が行われた(由来記)。康煕61年には初めて王子以下庶民に至るまで衣冠を着用して,正月2日・7月14日に参詣することを許可した(球陽尚敬王10年条)。知行高ははじめ300石,のち150石,100石,50石と逓減したが,康煕11年に60石とされ,同34年40石を加増され100石に復した(球陽尚貞王4年条・27年条)。明治6年の「琉球藩雑記」には役知100石・境内地1,080坪余とある(県史14)。明治12年の廃藩置県後,同17年尚家の私寺となった。昭和8年総門左右の掖門・山門・仏殿・竜淵殿・獅子窟・鐘楼・放生橋が国宝に指定された。沖縄戦で寺は破壊・焼失し,寺跡は戦後ほとんど削られ,一時琉球大学職員住宅が建てられた。まもなく円覚寺一帯は琉球大学運動場建設のため,首里城城壁を含めて寺跡の大部分が破壊され,放生池も埋め立てることになった。市民団体などの反対で放生池周辺は残ったが,寺域一帯は大いに変貌した。現在放生池および放生橋は修復され,総門,左右掖門は屋根の宝珠や鯱などの飾りを除いて復元されている。旧円覚寺放生橋は国重文,県立博物館所蔵の旧円覚寺の銅鐘1口・梵鐘3口も国重文,円覚寺跡は国史跡である。旧円覚寺総門・木彫円覚寺白象並びに趣意書・円覚寺放生池石橋勾欄は県文化財に指定されている。寺跡には現在も庶民の参詣が絶えない。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240001