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斎場御嶽
【さいはうたき】


知念村久手堅(くでけん)小字サヤハ原にある御嶽。沖縄第一の聖地とされる。知念岬に続く山地の,標高120m地点一帯に当たる。国史跡。方言ではセーファウタキという。さやはたけ(おもろさうし),斎場嶽(中山世鑑),サイハノ嶽(由来記),才波嶽(旧記),そやは(女官御双紙),さやはだけみたけ(混効験集)などと書かれた。琉球開闢神アマミキョの作った御嶽の1つとされ,久高(くだか)島へ遥拝する御嶽でもあり,また国王の親拝や聞得大君の即位儀礼である御新下りも行われた。標高108mの丘陵には琉球石灰岩からなる巨岩が屹立し,別の岩塊がよりかかって,三角形の吹抜けの洞穴を形成している。斎場御嶽内には,キョウノハナ・三庫理(さんこおり)・寄満(よりみち)・大庫理という拝所があり,首里城内の御殿や広間に同じ名称のものがある。男子禁制の御嶽で,男子は御嶽の入口で女子のように帯を左衽に締めてから入る習慣であった(島尻郡誌)。参道沿いには,ソウシジュ・モクマオウ・クスノキなどが植えられている。植生としては,石灰岩上では風が強いため高木はなく,4~5mの亜高木層以下になっている。寄満の付近には,モクタチバナ・ホルトノキ・アカギ・タブノキなどの亜高木層があり,かつてはリュウキュウマツで覆われていたが,沖縄戦での陣地構築のため伐採され皆無となった。国王の参詣を謡ったクェーナの「アガリユウ」には,「さいは森 さいは御嶽/松の並 ゆうなの並/くばの並 まあにの並/九年母の並 でいちなみ」と御嶽内に繁茂する聖木の美しさがたたえられており(クェーナ32/歌謡大成Ⅰ),明治30年代までは樹木が鬱蒼としていた。康熙12年(1673)国王親拝が廃され,代参するようになったが(球陽尚貞王5年条),民間でもこれに倣った東御廻りという霊地廻りの行事があり,今日でも沖縄の各地方からの参詣者が絶えない。聞得大君の御新下りの儀式は,真夜中に大庫理の岩の下で行われ,その詳細な様子は「女官御双紙」「聞得大君御殿并御城御規式之御次第」に見える。御新下りに際して謡われたクェーナには「大君まへ/按司そへ前/御すてもの/すてまもの/さやは御嶽/君の御嶽/おちやいめせうち/てやかりめせうち/百おくわん/御願召ち/百年ぎやめ/千年ぎやめ/おかけほさい/召れ(聞得大君様と国王様の尊いお二方は,斎場御嶽にいらっしゃいまして,多くの祈願をなさって,百年千年も末長く御即位なさってください)」とあり,聞得大君と国王の永遠性を祈願している(クェーナ35/歌謡大成Ⅰ)。洞穴にある2つの鍾乳石からは絶えず水が下の壺に落ち,国王がウビナディ(お水撫で)をするシキョダユルアマガ美御水と,聞得大君がお水撫でをするアマダユルアシカ美御水となっていた(クェーナ36/同前)。ミウビー(美御水)は,旧暦2月の麦の穂祭と4月の稲の穂祭の時,久手堅ノロが首里殿内に持参した。また,斎場御嶽に参拝した人々は,壺にたまった水の量によって豊凶を占ったといわれる。斎場御嶽に関するオモロは数種あるが,いずれも王府の祭式にかかわるもので,そのうち巻13‐102,No.847には次のように謡われている。一きこゑあけしのか(名高いあけしのが) さやはたけ おれわちへ(斎場嶽に降り給いて) あけずみそ めしよわちへ(蜻蛉のような美しい御衣を召し給いて) かさなおり さしよわちへ(風直り羽を挿し給いて) なみとゝろ うみとゝろ(波轟ろ船・海轟ろ船を) おしうけて(押し浮かべて) ひやくなの うらはりか みもん(百名の浦を走航するさまが,なんと見事なことよ)又とよむあけしのか(鳴り響くあけしのが)あけしの神女が斎場嶽に神降りし,「あけずみそ」や「かさなおり」で装い整えて,「なみとゝろ」「うみとゝろ」という船を予祝している。拝所である三庫理・寄満に関するオモロも1首ずつあり,それぞれ「さんこおり」(巻10-4,No.514),「よりみちへ」(巻1-34,No.34)と表記されている。前者は「さんみやあしやけ」とも呼ばれ,美しい鞍をかけた白馬に乗った聞得大君が浜に降り,船に乗って東方に漕ぎ進むことを謡ったものであり,後者は,聞得大君が寄満に神降りして戦勝を予祝するオモロで,この御嶽が首里王府の王権を守護する祭祀と深くかかわっていることがわかる。斎場御嶽の真下,久高島に相対する港で,「由来記」に所出するマチガキ泊のことと思われる「ちみんとぅまい」(君の泊)の港名が,イザイホーの時に謡われる「ありくやーぬティルル」の中に見える(ティルル31/歌謡大成Ⅰ)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240611