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下天妃宮
【しもてんぴぐう】


那覇(なは)市にあった廟。下天妃廟ともいった。天妃は中国の媽祖信仰に由来する航海を守護する神。はじめ久米村と那覇の境にあって天妃宮と号したが,のち久米村に上天妃宮が創建されたため区別して下天妃宮と称した。創建について,「由来記」は廟内の一片の古い板に「永楽二十二年造」とあったことから永楽22年(1424)とし,「球陽」もそれを認めている(尚巴志王3年条)。「琉球国碑文記」によれば「其規模中華之制の如し」という。尚泰久王は景泰8年(1457)在銘の巨鐘を喜捨した(由来記)。「李朝実録」天順6年(1462)2月癸巳条の琉球使普須古の答説に「海辺に天妃娘娘殿を作る。もし発船せば則ち馬猪を斬りこれを祭る。舟大洋に泛び風浪に遇えば,船中の人ともに心を斉くし,天妃を念ず」という(世祖8年条)。崇禎16年(1643)に神廟を修理し,順治18年(1661)にはかつて門にあった仁王木像が壊れた際,薩摩から仁王石像を請来し安置した(琉球国碑文記・球陽附巻尚質王14年条)。汪楫の「使琉球雑録」には境内は数十畝ばかりで前に大石池があるといい,「中山伝信録」はさらに堂内に諸冊封使の扁額が掛けられていると記す。雍正6年(1728)には親見世にあった菩薩をここへ移した(球陽尚敬王16年条)。乾隆24年(1759)に中国の制にならい天后宮と改称されたが(球陽尚穆王8年条),一般の呼称はなおテンピであった。明治13年この地に沖縄県師範学校を設置した時,像は上天妃宮に移され,そこが同22年天妃小学校地となってから波之上の天尊廟へ移された。昭和3年天尊廟の境内に天妃宮が新築されたが沖縄戦で焼失し,同50年1月に復興した。梵鐘は昭和21年焼跡から発見され現在は県立博物館に所蔵されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240725