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主要地方道名護国頭線
【しゅようちほうどうなごくにがみせん】


名護市と国頭村を結ぶ道路。県道70号ともいう。昭和47年までは県道13号と呼ばれていた。名護市二見(旧久志村)を起点に沖縄本島北部の東海岸沿いを北上し,国頭村奥に至る。実延長77.8km,うち改良済68.8km(88.5%),舗装済68.9km(88.6%)。二見から旧久志村域(現名護市)の大浦・瀬嵩(せだけ)・汀間(ていま)・安部(あぶ)・嘉陽,東村の有銘(あるめ)・慶佐次(げさし)・平良(たいら)・川田・宮城(みやぎ),国頭村の安波(あは)・楚洲などを経由し,その区間に有銘橋・慶佐次橋・伊是名(いぜな)橋・安波橋・楚洲橋・奥橋など45の橋梁がある。王府時代には久志間切から国頭間切に至る東海岸沿いに官道が通っていたが,険阻な海岸線が続くため人馬の交通さえ困難な状態であった。このため物資の運搬はもっぱら山原(やんばる)船による沿岸航路に頼るほかなかった。大浦湾や平良湾沿いの大浦・平良をはじめ沿岸の村々には山原船が出入りし,山原各地から木材や薪炭を沖縄本島南部に運んだ。沖縄本島南部東海岸における商品取引の中心地は大里間切の与那原(よなばる)で,国頭地方へ帰航する山原船はここで日用品を仕込み,各地で売りさばいた。明治41年には薪の値上げ問題がこじれて,山原船90余隻が与那原の海浜につながれ,久志村・金武(きん)村との往来が断たれるという事件があった。昭和8年,県の事業として平良を起点に北は川田まで,南は金武までの路線が改修された。平良~高江間は,第2次大戦後米軍が開通させたため,別名マリン道路と呼ばれた。昭和29年には国頭村辺戸(へど)~東村高江間の琉球政府道1号(現国道58号)と県道13号(現主要地方道名護国頭線)を結ぶ道路の開通が陳情されている。同年10月に米民政府のオグデン副長官は,国頭村と東村を結ぶ縦断路線と安田(あだ)~与那間の横断路線の建設を発表した。この縦断道路は,米軍の昼夜徹しての工事により完成した。この道路の開通により国頭地方の人々が長年苦しめられてきた陸の孤島苦が解消された。当時の新聞は「この工事完成の暁は琉球の今昔が結ばれ,へんぴな高江新川,国頭,安波,安田など鳥さえも通わぬ所に文化の恩恵が浴されよう」と記している。今日では段丘上を走る主要地方道名護国頭線からは,緑深い山原の山並みが見渡せ,観光道路としての要素も生まれ,沖縄本島中・南部から訪れる人の数も著しく多くなっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240751