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主要地方道本部循環線
【しゅようちほうどうもとぶじゅんかんせん】


本部半島を海岸沿いに一周する道路。県道71号ともいう。昭和47年までは県道124号と呼ばれていた。名護市伊差川を起点にして呉我を通り,今帰仁(なきじん)村の北部を西行し,本部町に入って具志堅から海岸沿いを南下,再び名護市に入って市街地に至る。昭和57年に名護市名護の東江(あがりえ)区から屋部,本部町崎本部(さきもとぶ)・渡久地(とぐち)を経て浜元に至る20.5kmが国道449号と重複するようになったため,本部循環線の実延長は21.7kmと短くなっている。全線にわたり改良舗装が終了している。橋梁数は19で,このうち呉我橋・大井川橋が知られる。呉我から今帰仁村湧川にかけての海岸線は,羽地内海に面し,沖縄海岸国定公園になっている。本部循環線から見る内海には,やがんな島や佐我屋島などの小島が浮かび,美しい風景を見せている。伊差川から呉我までの区間は,明治期まで道路がなく,大正3年に荷馬車が通れるほどの農道が開かれた。その後,大正15年に道幅が5mに拡張され郡道に編入され,その年,羽地村民の夫役によって呉我から今帰仁村との境までのマリーミチが完成した。昭和2年我部祖河(がぶそか)川に呉我橋が架けられ,それまで使われていた渡し舟が廃された。呉我橋は同9年鉄筋コンクリート橋に架け替えられたが,第2次大戦中日本軍の作戦で爆破された。戦後仮橋が架けられていたが,昭和36年再び鉄筋コンクリートの橋になった。昭和60年4月従来の橋の下流に新呉我橋が架けられ,供用開始された。湧川から今帰仁村今泊までの区間は,大正7年に拡張工事が完了した。それまでの街道は地形に沿ったもので,高低が多く道幅も狭かった。この年の改良で車馬が通れるようになり,今帰仁村の幹線道路となった。またこの道は宿道とも呼ばれた。湧川のマリーミチ(今帰仁村側)の開通が遅れたため,昭和4,5年までは今帰仁村玉城(たましろ)から呉我山を経て名護に通ずる山手線(現主要地方道名護運天港線)が主要道路となっていた。マリーミチが通れるようになると,山手線に代わって,現在の本部循環線が名護への幹線道路になる。沿道には松並木を見ることができるが,戦後の道路拡張によって失われたところが多い。また,20年前までは,湧川・仲宗根・平敷(へしき)から崎山・与那嶺・今泊にかけての沿道には水田が広がっていた。具志堅から浜元に至る本部区間は,大正5年頃に開削工事が始まり,大正末期頃に開通した。本部半島一周道路の開通は昭和6年頃である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240757