首里
【しゅり】

旧国名:琉球
方言ではシュイという。王府時代末に渡来した欧米人は多くシュイ(Shui・Shuey)と表記した。沖縄本島,中頭(なかがみ)地方の丘陵の最南部に当たる首里台地上に立地する。地内の標高は弁ケ嶽の165.7mが最高で,次いで首里城跡内の約140mである。このように,首里は現在の那覇(なは)市域で最も標高の高いところで,地内の大半は標高50m以上,台地上は全般的に標高130m内外に達する。50m以下の低地は,安里(あさと)川や安謝川沿岸の一部にしか見られない。首里台地は,島尻層と総称される泥岩や砂岩を基盤岩とし,その上を琉球石灰岩が覆ってできている。複雑な谷が発達し,急崖となっているところが少なくない。台地は谷によっておよそ3つの部分に分けられる。北部に首里石嶺の台地,安謝川の南側に虎瀬(とらず)山から弁ケ嶽に至る丘陵があり,真嘉比川の谷を渡ると,弁ケ嶽から南に分岐する形で,首里城跡のある台地が安里川の谷に臨んで屹立する。三山鼎立時代は中山(ちゆうざん)の,統一後は琉球王国の首都となる。明の「星槎勝賢」に翠麗と書かれ,「明実録」洪武26年(1393)には中山王の使者の中に「寿礼結致(シュリウッチ)」の名が見える。首里の字は,尚円王(1470~76在位)の書簡に押された「首里之印」が初見(南島風土記)。その後,辞令書には「首里之印」が押され,万暦年間(1573~1619)までの辞令書は「しよりの御ミ事」で始まっている(県文化財調査報告書18)。「おもろさうし」でも「しより」と表記している。首里城の城下町として発達し,年代は未詳だが,14世紀の察度王代か,15世紀の尚巴志王代に王都になったとする2つの説がある。15世紀,海外貿易で繁栄した第一尚氏王統時代に,国相懐機が明にならって首里城下の整備に務めたとされる。宣徳2年城下に竜潭を掘り,外苑を整え,同3年中山門,景泰年間(1450~56)天界寺を建てるなど,都の造営が進んだ。当初,中国の冊封使渡来の際,浮島であった那覇との間には,船を並べて橋とする状況であったが,尚金福王は,景泰3年の冊封使渡来にあたり,懐機に命じて,那覇との間に長虹堤(ちようこうてい)を築かせた(球陽尚金福王2年条)。長虹堤は,王都首里とその外港の那覇を結ぶ交通上の要衝となった。天順2年(1458)の旧首里城正殿銅鐘銘(万国津梁の鐘銘)に,「琉球国者南海勝地而鐘三韓之秀以大明為輔車以日域為唇歯在此二中間湧出之蓬莱嶋也以舟楫為万国之津梁異産至宝充満十方刹地」と,当時の琉球国の地位と海外発展の勇壮な気魄が刻まれており,琉球の繁栄すなわち首里の繁栄を物語っている。第二尚氏王統の尚真・尚清王代(1477~1555)には首里城を拡張し,城内に歓会門・久慶門・継世門の3門を建て,綾門大道(あやじようおおみち)に守礼門などを設け,さらに玉陵(たまうどうん)・園比屋武(そのひやん)御嶽・円覚寺を創建するなど,一層整備が進んだ。尚真王は,各地の按司を首里に集居させ,各按司の所領には代官として按司掟を派遣した(球陽尚真王条附)。中央集権体制の確立に伴って,諸地頭家の御殿・殿内が続々と居宅を構えたので,城下町の体裁が整っていった。慶長14年の島津の侵入時には,4月1日島津軍は首里・那覇に進軍,「琉球渡海日々記」には「足軽衆首里へ差懸り,鉄放取合仕,殊ニ放火共仕候」とあり,かなりの財宝や文書が失われたのは事実であるが,国王が王の弟と三司官を人質として差し出したため,首里城と城下は大きな被害は被らなかった(那覇市史資料1‐2)。
【首里(近世)】 王府時代の都名。
【首里区(近代)】 明治29年~大正10年の区名。
【首里市(近代)】 大正10年~昭和29年の自治体名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7240758 |





