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門川道
【じょうがみち】


沖縄本島北部,名護市安和から本部(もとぶ)町渡久地(とぐち)に出る山道。方言でもジョウガミチという。嫦娥道・娥道とも書く。王府時代から大正初期まで名護~本部間の主要道であった。名称は,安和から渓谷を登ってゆかねばならず,雨天の時には狭い門から水があふれ出る有様になることにちなむと思われる。「南島風土記」には「嫦娥坂 安和より本部渡久地に至る山道約三里,嘉津宇・安和両岳の陝を穿ちて僅かに往来を通じたれば,古へ崎嶇錯落旅人の最も悩む所であった」とある。安和からの道は渓谷を過ぎると門川坂(じようがびら)となり,滑々した大きな石を踏みしめて登る。名護・本部境の峠(275m)から先は急傾斜の小道を転げ落ちるように本部町辺名地(へなち)のキナバル(喜納原)の集落に下りる。人里遠く離れた山間の険路で,昔は追いはぎが出没するともいわれた。また明治7年名護・本部に郵便物取扱所が設置されて以来,この道を経て郵便物が逓送されたため郵便道とも称された。明治29年はじめて那覇(なは)~名護間に就航した第三運輸丸を利用する本部方面からの乗客は,ほとんど門川道を通って名護に出た。明治43年5月18日の本部徴兵忌避騒動のとき大塚郡長・野島司令官一行はこの道を名護へ撤退した。本部の入営兵,転出入の学校教師,新聞記者の取材旅行も,大正中期までこの道を通っており,大正5年7月17日の琉球新報は「人工の加はった跡の殆んど見出されない嫦娥坂は,原始時代以来変遷のないような気がする」と記している(本部町史)。名護と本部を結ぶ道路は,大正5年本部町伊豆味(いずみ)経由の郡道が完通,昭和8年海岸線が開通した。しかしその後も門川道は近距離の故もあって本部の学童や一般の利用者が絶えなかったが,郡道や海岸線の乗合自動車の増加に伴って利用が漸減し,第2次大戦後,車社会への移行とともにほとんど利用されなくなった。さらに山地・丘陵地でパイナップル栽培が盛んになった昭和35年頃,本部側から名護市との境界まで車両が通行できる新しい農道が開通したため,門川道は今日では放置され,樹木が生い茂って旧道跡の見当もつけ難い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240786