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末吉宮
【すえよしぐう】


那覇(なは)市首里末吉町1丁目にある神社。祭神は伊弉冉尊・速玉男神・事解男神。琉球八社の1つ。俗称の社壇は祭壇の唐名による。李鼎元「使琉球記」に蜀楼,「琉球神道記」では末吉権現と見える。尚泰久王代(1454~60)に首里の天界寺僧鶴翁が大和での修行中,熊野に向かって,学問成就せば帰国後に参詣すべしと誓った。のち天界寺に住し祈誓を遂げんと奏上したが許されなかった。夢に熊野権現が示現して霊地を教えられ,そこに1つの鬼面を得た。王にも霊夢があり,大社を建て,古鏡を1つ得て内陣に安置したという。万寿寺は同時の建立か(大慶山権現縁起/由来記)。末吉宮一帯の丘陵を冊封使録は亀山と呼称した。「中山伝信録」は「亀山は末吉村にあり。土称は末吉山なり。山は中山の北にあり。重岡,環繞す。山半に木亭あり,前後二楹なり。南望すれば海を見る。林木,鬱然たり。第一の勝処たり」と記す。嘉慶8年(1803)に大破したが,もとのように修復した(球陽尚成王元年条)。1・5・9月の吉日の行幸は,順治元年(1644)に始まり(由来記),王府時代は官社として神職に役俸が支給された。明治6年の「琉球藩雑記」では,祝部2石・内侍1石5斗・宮童1俵とある(県史14)。本殿は岩山の頂にほぼ東面して建ち,三間社流造り本瓦葺。本殿前の谷にある2つの岩をそれぞれ切石で包むようにして積み上げ,その間に石造拱橋を架ける。石橋の上の西半分と本殿の軒下との間に,拝殿が建てられていたが,明治末期に老朽し倒壊した。石橋の東の橋脚が立つ岩の東側に,低い岩のまわりを石垣で積み上げて祭場が作られている。祭場から拝殿に上る階段(磴道)がある。社殿および磴道は昭和11年国宝に指定されたが,沖縄戦で破壊された。昭和31年末吉宮および磴道は琉球政府特別重要文化財史跡に指定された。同47年5月末吉宮跡として国史跡に指定され,同年本殿および磴道が復元された。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240819