100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

園比屋武御嶽
【そのひゃんうたき】


那覇(なは)市首里真和志(まわし)町2丁目にある御嶽。方言ではスヌヒャンウタキという。守礼門と首里城正門の歓会門との中間,竜潭に臨む安国山の丘にほぼ南面してたつ。この丘を御神体とするといわれているが,かつて折口信夫が問題としたように再考の余地がある。第二尚氏の祖,尚円の生誕地といわれる伊是名(いぜな)島勢理客(せりきやく)(伊是名村)のタノカミ御嶽のソノヒヤブ神を勧請したともいうが,伊是名島への遥拝所だったとも考えられる。「由来記」には神名モジロキヨウニギリキヨウ,三平等(みひら)の大あむしられの崇べ所と見える。御嶽正面の石門(国重文)は,楣に取り付けてある石彫りの扁額に「首里の王おきやかもいかなしの御代にたて申候。正徳十四年己卯十一月二十八日」と刻まれ,創建年を伝える。「おきやかもいかなし」は尚真王の神号。「球陽」によれば,その時御嶽内に花木を植え石垣も造った(尚真王43年条)。また石門は総体石造単層平入唐門で,八重山諸島竹富(たけとみ)島の西塘の作といい(球陽尚真王48年条),左右に切石積みの脇垣がある。総長10.38m,石積みの厚さ2.9m,門の間口2.41mで,上部に高さ2.25mの楣を設けてある。楣の上に板葺形の唐破風をかたどった屋根をのせ,軒は石を彫って垂木を模し,屋根の妻には懸魚,大棟の両側面には唐草文を彫る。棟の中央部に火焔宝珠,両端には鬼瓦をのせ,さらにその上に鯱形の吻をつけてある。この御嶽は安国山の奥にあったかなひやぶ嶽への遥拝所でもあり,また王城内に入れない庶民にとって城中の御嶽への取次ぎを祈るところでもあった。「おもろさうし」には「そのひやふ」と「かなひやふ」は対で見える。巻3-4,No.91の大意は,聞得大君と国王が三平等の大あむしられ,その他多くの家来・神女を従え,首里城内の御嶽と園比屋武御嶽で,板門造営の安全と後々までの安泰を祈ったということである。この板門とは園比屋武御嶽あるいは歓会門を指すと思われる。国王が正月に円覚寺・天王寺・天界寺へ初行幸する際には,まず首里森とこの御嶽を拝したほか,かつて国王がこの御嶽の前で神託により大難を免れたので,古くから城外に行幸する時は必ず拝することになっていた(由来記・球陽尚貞王4年条)。安国山の丘は樹林が鬱蒼と茂っていたが,昭和20年の沖縄戦時下に戦災にあい,加えて戦前・戦後を通じて隣接する小学校の運動場拡張のため大幅に削られた。さらに戦後琉球大学女子寮を建てるため,石門の斜め左手裏も削られて大いに変貌した。石造門は昭和8年国宝に指定されたが,沖縄戦で大破した。昭和31年トラバーチンと安山岩の石材で復元。同53年頃から石門に亀裂が生じたため同58年に解体調査が行われ,翌年から残存するかつての石材を元の位置に再使用し,石材・工法なども旧規に復する方針で復元工事が進められている。昭和61年春竣工。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240891