泊
【とまり】

旧国名:琉球
方言ではトゥマイという。沖縄本島の西海岸に位置し,現在は安里川下流から河口までの右岸を占める地域だが,往古は南に那覇(なは)の浮島をひかえた入江に臨んでいたと見られる。首里の西森丘陵に続く低く平坦な天久(あめく)台地を腰当にしているが,この台地の南縁には石灰岩堤が残っており,銀森・黄金森などの丘となる。安里の崇元寺裏手からのびる小丘阜の一画に硫黄倉の崖があった。土壌は,黄金森から東部の丘陵地はジャーガルの泥灰岩土壌,天久台地南縁の高真佐理屋原付近はニービの石灰岩土壌であり,低地はすべて砂地。古くから北は遠く奄美諸島(鹿児島県)の島々や沖縄本島周辺の離島,さらに国頭(くにがみ)地方から中山に貢納物を運ぶ船は,すべて当地の泊(港)に入った。その由来で,村名も泊と名付けられたといわれる(遺老説伝)。「ペリー訪問記」にトマイ(Tumai・Tume´),フォルカドの日記にはトマイ(Tu-ma
¨)と見える。察度王代(1350~95)には,泊は中山の湊になっていた。「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡」碑によると,洪武23年(1390)宮古島主与那覇勢頭豊見親が中山に帰順し入貢したが,はじめは言葉が通じず,3年間泊に留置された。のち,首里城に貢を納めることができた。その間,彼の部下で高真佐理屋は,毎夜天久台地南縁の丘に登り,故郷宮古島をしのんでアヤグを謡ったので,以後そこを高真佐理屋と呼ぶようになったという。かつて高真佐理屋の子孫がたてた碑があったが,沖縄戦で破損,のち宮古郷友会によって再建されている。尚徳王(1461~69在位)は,泊を出発して奄美を服属させた。成化2年(1466)喜界島(鹿児島県)から尚徳王が泊に凱旋した時,呉姓我那覇宗重の妻が王に清水を捧げて夫婦ともに褒賞され,宗重は泊地頭に,妻は泊大阿母潮花司の神職に任じられた(呉姓大宗家譜/那覇市史資料1‐8)。泊地頭は泊と硫黄鳥島を管轄した。のち泊大阿母の屋敷跡は拝所になった。泊には,奄美の島々からの貢物と,沖縄本島西方海上の離島の貢物を納める大島倉が天久に建てられ,貢納船の事務を司る官吏が常駐する泊御殿が設置された。両者とも,慶長14年の島津侵入以後は廃されたが,「球陽」が編纂された18世紀中頃までは,それらの跡が残っていたといわれる。聖現寺に近い,現在の県立泊高校付近にあったという。洪武5年(1372)以来,硫黄は,中国進貢において最重要物資であった。硫黄は,硫黄鳥島から運んで泊に陸揚げし,のちの崇元寺の西に当たる硫黄倉に貯蔵された。この硫黄倉は,丘陵にうがたれた洞穴の倉庫であった。当初は,生硫黄2万~3万斤を進貢したが,船腹不足により,嘉靖年間(1522~66)の末期頃からは,精錬した熟硫黄を餅状にして,1万数千斤を進貢する例となる。精錬は硫黄倉と那覇港内の硫黄城で行われ,与人・硫黄焼主取・同検者・手代が定日用を使って,これにあたった。精錬は近世末期まで続き,戦前まで痕跡をとどめたが,現在は整地されている。崇元寺は泊のうちで,その下馬碑からみて嘉靖6年の創建といわれる(南島風土記)。崇元寺前を通る道は,泊と首里城を結ぶ重要な往還であったが,門前で下馬しなくてはならず,のちには川沿いの別の道が設けられ,豊見城(とみぐすく)路と呼ばれた。
【泊村(近世)】 王府時代~明治29年の村名。
【泊(近代)】 明治29年~大正3年の那覇区の字名。
【泊(近代)】 昭和46年~現在の那覇市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241161 |





