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波上宮
【なみのうえぐう】


那覇(なは)市若狭1丁目にある神社。旧官弊小社,祭神は伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊。琉球八社の1つ。汪楫「使琉球雑録」では海山寺と見える。社殿は海岸に臨む崎原岬の断崖上に建つ。「中山伝信録」には「山下の海中に石芝を生ず」とあり,李鼎元「使琉球記」は,断崖の形が石筍と似ていることから石筍崖と名付くと記している。「琉球神道記」は波上権現とし,「此権現ハ,琉球第一大霊現ナリ。建立ノ時代ハ遠シテ人知ラズ」といい,由来を記す。それによれば,昔,南風原(はえばる)間切崎山村の崎山里主は毎日釣りをしていたが,ある日,汀で霊石を得て,祈誓したところ効験があった。この国の諸神が霊石を奪おうとするので波之上に持参し,神託に「我ハ是日本熊野権現也。汝ニ縁アリ。此地ニ社スベシ。此国家ヲ守護スベシ」とあったので,王府に申請して社殿を建てたという。その年次は不明だが,「おもろさうし」巻10-17,No.527には次のように謡われている。一しよりくになるあんし(首里国におわします按司)又くすくくになるあんし(城国におわします按司)又しより ちよわる あちおそい(首里におわします按司襲い)又くすく ちよわる あちおそい(城におわします按司襲い)又けおのよかるひに(今日の良かる日に)又けおのきやかるひに(今日の輝ける日に)又大ぎみは たかべて(大君を祈って)又くにもりは たかべて(国守りを祈って)又かみしもは あとへて(沖縄本島の上,下の人を集めて)又ぢはなれ そろいて(離島の人を揃えて)又いしへつは このて(石槌を工んで)又かなへつは このて(金槌を工んで)又いしらごは おりあげて(石を折り上げて)又ましらごは つみあげて(石を積み上げて)又なみのうへは げらへて(波上宮を造営して)又はなくすく げらへて(端城を造営して)又物まいり しよわちへ(神参りをなさって)又てらまいり しよわちへ(寺参りをなさって)又かみも ほこりよわちへ(神も誇りなさって)又ごんげんも ほこりよわちへ(権現も喜びなさって)国王様が吉日を選び,神女である大君・国守りをお招きして地鎮祭を行い,国中の人を集めて,波上宮を造営し,お祈りなさったので,神様もお喜びなさって,私どもをきっと守って下さることであろう,という意を謡ったオモロである。なお,「なみのうへ」の対語「はなくすく」は,断崖にある石囲いの拝所の意味で,波上宮の前身が古い民間信仰の対象であったことの名残かもしれない。また「琉球神道記」は,のちに海より鳧鐘が寄り来たり神前に奉安したと記す。嘉靖元年(1522)大和僧日秀が再興し,自刻の熊野の本地阿弥陀・薬師・観音の3像を安置した(由来記・球陽尚真王46年条)。崇禎6年(1633)火災にあったが,3像は前日に護国寺住僧頼雄が請うて護国寺に安置していたため難を逃れた(同前)。同8年尚豊王は高応寺の頼慶を日本に遣わし垂迹の3神を招来させた。その時,祝部天願筑登之親雲上は頼慶に随って上国し,鹿児島の佐藤権大夫に神道を学び,秘書を伝授され,帰国後にこれを七社の祝部に教えた。頼慶は帰国後に社殿を再興し,神威ますます栄え,人々は尊信したという(由来記・球陽附巻尚豊王13年条)。王府時代は正月元日・15日に親方以下を遣わして,国王万歳・子孫繁栄・国家安穏を祈願した(由来記)。嘉慶8年(1803)の重修で,大風への対策として,宮殿を3棟から1棟とし,1棟を3欄に分けた(球陽尚成王元年条)。神職の役俸は,明治6年の「琉球藩雑記」に大夫5石・権祝部各1石・内侍2石・宮童1俵とある(県史14)。同12年の廃藩置県後,同22年県は「人民ノ崇敬心ヲ惹起セシムルニ止マラス,将来県治上ノ裨益不尠」との見地から波上宮を国幣中社に列することを申請した。しかし伊弉冉尊を祀ることから国幣社とはできず,翌23年官幣小社に列格された。同年阿弥陀・薬師・観音の3像は護国寺へ移管された(琉球宗教史の研究)。同40年に大修築,大正12年に改築したが,昭和19年の10・10空襲で焼失した。同28年本殿・社務所再建。なお波上宮梵鐘は,顕徳3年(956)在銘の朝鮮梵鐘で,胴に飛天のほか菩薩像を鋳出しているのは稀有のことという(南島風土記)。梵鐘は,現在県立博物館に収蔵されている。




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「角川日本地名大辞典」
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