野国総官の墓
【のぐにそうかんのはか】

嘉手納(かでな)町兼久の米軍基地内にある墓。県史跡。野国総官は,北谷(ちやたん)間切野国村の出身。総官とは進貢船の総務を司る役職名。野国総官の姓名および生没年は未詳。中国からはじめてサツマイモを伝え,ンムウフシュ(芋大主)と呼ばれた。康煕39年(1700)地頭の野国親方正恒が石壇・石厨子を造って岩陰に安置し,乾隆16年(1751)比嘉筑登之が顕彰碑「総官野国由来記」を建立。現在墓の前庭部にある「甘藷発祥之地」の碑は,昭和18年県産業組合によって建てられた。野国総官が中国から芋の種苗を持ち帰ったのは万暦33年(1605)で,野国・野里などに試植。飢饉時の非常食として利用され,儀間真常がこれを各地に奨励した(球陽尚寧王17年条)。のちのちまで野国・野里・砂辺(すなべ)の人々は,2・3月中の吉日を選んで,墓を祀って豊年を祈った。一方,儀間(小禄(おろく)間切)の人々は儀間・赤平で報恩祭を催した(同前)。沖縄に伝来した芋は,万暦43年平戸(長崎県)のイギリス商館員リチャード・コックスが沖縄から種苗500本を取り寄せて平戸島に栽植しており,同年三浦按針も沖縄で芋を購入し平戸にもたらした(南島風土記)。薩摩に伝わったのは宝永年間前田某が沖縄の苗を山川に栽培したのが嚆矢となっている。伝播の過程で芋の名称も,唐芋,琉球芋,薩摩芋と変化した。なお先島へは,万暦25年中国から宮古地方へ伝えられ,康煕34年八重山地方へ中国鎮海から波照間高康が伝えたといわれている。大正11年から北谷村では旧暦8月に,野国総官への報恩祭が行われた。昭和9年那覇(なは)の奥武山(おうのやま)に建立された世持神社は,県産業界の恩人として蔡温・儀間真常・野国総官を祭神とした。同30年甘藷伝来350周年事業として,県立農林学校跡(嘉手納)に野国総官宮を建立,現在嘉手納町主催の例祭が毎年かでなまつりの初日に行われている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241393 |





