波照間
【はてるま】

旧国名:琉球
地元ではベスマ(我が島)というが,他地域からはパティロー・パティローマと呼ばれる。琉球諸島の最南端に位置する波照間島の全域を占める。「おもろさうし」には,「はてるま」と見える。遺跡には,八重山考古編年第Ⅱ期の下田原貝塚(県史跡)があり,石斧・すり石・赤色土器が採集された。第Ⅲ期に属する遺跡は下田原城跡ほか14か所確認されており,八重山式土器や外来陶磁器が採集される。島の北西端にある伝ミシュク村跡遺跡一帯は,島の村落発祥の地といわれ,近くに最古の井戸の1つ美底井があり,その東側には内盛と呼ばれる石積みの城跡がある(県文化財調査報告書29)。内盛には島本家が祈願する「世定めの瓶」と称する水瓶があり,それにたまる水が中位なら豊年,下位ならば凶年,あふれると世が尽きて世替りすると伝える。内盛の南側にある新生御母墓は,島の創世の油雨伝説に由来する遺跡といわれる。島には海岸を8つのインヌパカ(海区域)に分け,それぞれ島の旧家が豊漁を祈願する慣行があり,美底の北海岸のニシイノー(礁池)から西海岸のペェパマ(南浜)のブイノーまでの海域は,島のトゥニムトゥ(宗家)の1つ保多盛家のインヌパカである。成化13年(1477)の朝鮮済州島漁民漂流記に,波照間島は黍・粟・麦は産するが,水田はなく,米は西表(いりおもて)島の祖納(そない)村まで行って求めたという(李朝実録成宗10年条)。弘治13年(1500)の乱で知られるオヤケ・アカハチは波照間の出身で,アカハチ誕生の地(町史跡)がある。また八重山地方の有力な氏である松茂氏・大史氏も波照間の出身である。
【波照間島(近世)】 王府時代の広域地名。
【波照間村(近世)】 王府時代~明治41年の村名。
【波照間(近代)】 明治41年~現在の字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241436 |





