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真珠道
【まだまみち】


那覇(なは)市の首里と国場川河口の真珠湊(旧那覇港)を結ぶ王府時代の道路。嘉靖元年(1522)建立の真珠湊碑(別称石門西のひのもん)には,真珠道の建設と真玉(まだん)橋の由来が記されており,この道路建設が尚真王代(1477~1526)の一大土木事業であったことがうかがえる。真珠湊碑文に見えるように,首里城正門右のイシジョウ(石門)を起点とすることは確実であるが,全行程が起点の石門から真玉橋までであるか,那覇港入口の屋良座森城までであるか未詳とされてきた。しかし県教育委員会が昭和58年度に実施した調査では,守礼門の南東脇にあった石門を起点として,金城(きんじよう)町石畳道―識名坂―真玉橋―石火矢橋―小禄(おろく)を経由,屋良座森城に至る約9kmの道筋が想定されている。このうち,真玉橋までは嘉靖元年に完成しており,屋良座森城までの完成は同32年である(県歴史の道調査報告書)。起点となる石門は,首里城から西へのびる小丘を切り通し,入口両側は高さ約2mの岩を削った石壁となっていた。道幅約4mで,入口左右には約6畳敷の天井のない石室をつくり,北向きにそれぞれ幅約2mの出入口と2段の石段が設けられていた。石室外壁は高さ約2m,内壁は高さ約1.5m,ともに太い角柱形の石材を横に積み上げたもので,道の入口にあたる角の部分は見事な石組みの門構えになっていた。石室中央には嘉靖元年建立の微粒砂岩(ニービ)の石碑がたち,西の石室の碑は前記真珠湊碑,東の石室の碑は尚真王頌徳碑である。この石門は第2次大戦で石碑もろとも跡形もなく破壊された。石門から金城橋への道筋は,首里城下の急勾配の地にある石畳道である。石門を出て約100mの真珠小路から分岐して西に蛇行する石畳道が島添坂。この坂道をさらに南に下って行くと県史跡・名勝の金城町石畳道となる。この付近は石畳の急な坂道と沿道の高い石垣が調和して城下町の情緒をよく残している。これらの石畳道は,道路の開通によりところどころ分断されているが,かつては金城橋を渡って識名坂まで続いていたという。金城橋も近年コンクリート橋にかわった。「識名坂の遺念火」伝説で知られる識名坂は,かつては石畳道であったが,近年開発が著しく進行し昔の面影は急激に失われつつある。上間の光明寺下と国場にある嘉数女子学園沖縄女子短期大学の学生寮近くには,往時をしのぶ道筋がわずかに残っている。国場から真玉橋に至る道筋は国道329号とほぼ一致する。戦前石造りの名橋といわれた真玉橋は,コンクリート橋にかわっており,往時の姿を全くとどめない。饒波(のは)川に架設された石火矢橋も昭和53年まで残っていた石積みの橋脚が完全に取り壊され,コンクリートと鋼材の橋にかわっている。石火矢橋を渡ると道筋は2つに分かれる。1つは豊見城(とみぐすく)城跡の東側を漫湖に沿ってまわり垣花へ至る。ほかの1つは豊見城城跡内を横切り豊見城番所を経て垣花に至る道である。垣花小学校以西の旧住吉町と垣花町は,戦後米軍による接収で町並み全域が消え,当時の地籍すら明確でない。さらに屋良座森城は,米軍港建設によって埋め立てられ,その位置すら確認できないほど変貌してしまった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241740