易国間村(近世)

江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。異国間村とも書く(邦内郷村志・仮名付帳)。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。正保4年南部領内惣絵図に「イコクマ」とのみ見える。天和2年の惣御代官所中高村付にも村名がみえるが,元禄12年の絵図に記載はない。延宝元年に田名部通の検地が実施されたとされるが委細不明(邦内貢賦記)。村高は,「邦内郷村志」29石余,うち畑27石余,「原始謾筆風土年表」寛政10年条および「旧高旧領」でも29石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず,「仮名付帳」には当村と村内の桑畑村がともに大畑村の枝村とされている。古くは蝦夷も居住していたといわれ,菅江真澄「牧の冬枯」に「此浦に夷人すみて,其末今もありとぞ」とある。また「原始謾筆風土年表」天明3年条に「異国間足高,脇野沢発府羅と云る蝦夷人々の末孫にして,蝦夷稗と唱へ家々より量り出セしは何年頃ニや始けん,明和8年に止しかと」とあり,海峡の蝦夷を統率した足高酋長が藩主より毎秋蝦夷稗をあてがわれていたとされる。足高の後裔は長兵衛といい,後に奥戸村(大間町)に移ったという(南部諸城の研究)。戸口は,享保6年51軒・685人,うち桑畑5軒,馬32疋,牛23疋(下北半島史)。元文5年40軒・441人,馬16疋,牛12疋(菊池家記/県租税誌),安永9年68軒・371人,馬22疋,牛2疋(邦内郷村史),寛政10年28軒(原始謾筆風土年表),享和3年78軒,うち枝村桑畑5軒(本枝村付並位付)。地内の大石神社は,延宝6年の勧請で(下北半島史),「邦内郷村志」に明神堂とあり「俚人云磯大明神」と記載されている。別当は光明坊で,貞享4年の棟札に「大磯之大明神之社宮」とある。旧村社。桑畑に享保年間勧請の八幡宮があり,旧村社。曹洞宗北祥山東伝寺は,大畑大安寺末庵で,「下北半島史」では草創年を寛永6年,「国誌」では東伝院とあり万治3年の草創としている。享保年間頃には正円庵と称されていたとされ(風間浦村誌),「邦内郷村志」にも正円庵とある。のち昭和28年に寺号を得る。浄土宗高松山光月寺は,大畑心光寺末庵で,貞享3年の草創(下北半島史)とされるが,「国誌」には光月庵とあり,草創年不祥としている。享保年間頃は慈体庵と称されていたとされ(風間浦村誌),「邦内郷村志」にも慈体庵とある。昭和17年に寺名を得る。当村は海岸線まで山が迫る山村的漁村で,易国間湊は正保2年の田名部五ケ湊,元禄12年の田名部七ケ湊への指定はないが,「田名部記」享保6年条や「邦内郷村志」では七ケ湊の1つに指定されている。檜材や煎海鼠・干鮑・昆布など地先の海産物の積出しで栄えた。「原始謾筆風土年表」文政元年条では七ケ湊から除かれ,浦となっている。港としての機能は江戸初期から果たしており,「雑書」に寛文年間の入津がみえ,上方・北陸・松前方面と交易があった。元文3年の問屋議定書に署名のある易国間の廻船問屋は,中津市左衛門・池田金三郎・山本作右衛門・佐々木左衛門太之助の4人であり,享和年間にさらに広谷孫治が加わっている(宇曽利百話)。嘉永3年能登屋は弁天丸を所有し,青森に出店を持ち,易国間・釜石(蛇浦)・大間の3浜の昆布を売買したという(大間町沿革史年表)。当村に能渡・越膳姓が多いのは出身地名を姓名としたもので,西廻り海運との関係の深さを物語る。上浦に属し,享保6年には弁財船1艘・天当小廻船1艘・漁船6艘を有し,享保年間には桑畑に塩釜1があり(下北半島史),安永9年には地船3艘・漁船27艘を持つ(邦内郷村志)。磯魚が豊富なことで知られ,菅江真澄「牧の朝露」に「いこくまのそい,杉の尻の鯛,いちのながれのすゞき,くははたのはくどく,ゆるみのたなご,黒崎のあぶらこ,つぶたのびりくそ,さくまのなめ」とある。檜山は,桑畑・小川目・滝野沢・河原家戸・大石野沢・八森・善兵衛沢・目滝の8か山にあった(同前)。享和2年から文化12年の間の檜山払下人に清助と利助の名がみえる(原始謾筆風土年表)。享和3年幕府から佐井が箱館渡航地に指定されたが,人数多数の場合は易国間からも渡海した(宇曽利百話)。またこれに伴い,文化4年下風呂境滝より易国間を通り,蛇浦の岩崎まで新道開削。同8年には,人足伝馬の徴発が頻繁となったことから北通り村々による田名部町定役銭減免愁訴が行われ,当村肝入勝兵衛も訴状に連署している(風間浦村誌)。文化5年大砲2門を設置(原始謾筆風土年表)。安政2年明神崎に船遠見番所を設け,翌3年古野林・前浜の台場を明神下に統合して大砲3門設置(宇曽利百話)。桑畑に冷泉がある(風間浦村誌)。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治11年下北郡に属す。明治初年の戸数87・人数482(風間浦村誌)。明治初年の「国誌」によれば,戸数73,うち支村桑畑13,村況については「土地下之下,田畑少く食糧足らす,男子は北海道出稼又漁を専とし,女は家に在て耕種し」とある。明治以降も漁業が基幹産業であり,出稼ぎによって生計が補われている。同8年の北海道出稼者は112名(大間町沿革史年表)。出稼ぎ傾向は年々大きくなり,同16年の河西粛四郡長への内申によれば「民業は半農半漁なり,富村の一に居れり。鰯糟を出す」とあるが,同18年の郡長巡察記録には村中の壮者の九分通りは北海道鰊漁場へ出稼ぎをしているとある。明治3年当村一帯に山津波が発生。同7年易国間小学校開設。同13年の戸数87・人口541(下北半島史)。同22年風間浦村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250131 |





