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石亀村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属す。村高は,「正保郷村帳」88石余(田59石余・畑29石余),「貞享高辻帳」110石余,安永6年「三戸御代官所惣御村三十三ケ村小高覚」135石余(うち御蔵高8石余・石亀和右衛門78石余),「邦内郷村志」135石余(うち給地127石余),「天保郷帳」336石余,「天保8年御蔵給所書上帳」147石余(御蔵高14石余・給所高132石余),安政3年「三戸通神社仏閣地名書上帳」147石余,「安政高辻帳」270石余,「旧高旧領」147石余。「仮名付帳」では枝村として杉本村が記される。「邦内郷村志」では家数26,馬82。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の上,家数25。安政3年「三戸通神社仏閣地名書上帳」では家数30・人数116(男57・女59),地内には法呂【ほうりよ】・薬師堂が見える。初代紀伊守信房が天正年間から石亀に居城したと伝える石亀氏は,3代直徳が南部利直から当村ほかで250石を与えられ,慶長19年9月14日にはさらに150石を加増され,合計400石の黒印状を与えられたという(参考諸家系図)。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治3年三戸県から斗南藩に移管された時,田子通大肝入から関通の支配に変化した。「国誌」によれば,明治初年の家数24,地味は下の下で畑勝ちという。また当村と道地村・杉本村の3か村は,「三村共に各村にして戸籍歳祖等異なりと雖も,民戸軒を連て一村の如く,田圃山野も境界犬牙して別ちかたし」とある。しかし,明治9年改正青森県学区割には道地・杉本・佐羽内の3か村は見えず当村のみ記されることから,同年までに3か村を合併したものと考えられる。明治12年の「共武政表」によれば戸数・人口は本村25・130(男67・女63),道地26・122(男70・女52),杉本27・130(男68・女62),学校は本村1,水車は本村2・道地1・杉本1,牛・馬は本村10・56,道地0・68,杉本1・36,物産は米・麦・雑穀・薪・木材。明治9年当村と茂市村の107戸・418人を1小学区として,当村に上郷小学を開設,同12年の教員数は男1,生徒数は男24(明治12年公学校表)。神仏分離を経て,薬師堂は石亀神社と改称して存続した。同22年上郷村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250136