今泉村(近世)

江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」20石余,「貞享郷村帳」157石余,「貞享4年検地水帳」116石余(田98石余・畑屋敷17石余),「寛保高辻帳」157石余,「天保郷帳」618石余,「旧高旧領」246石余。集落は下之切通沿いに位置し,承応2年の津軽領道程帳によれば,藩市村~今泉村の距離は7町10間で道幅は「潟ばた故不及記」とあり,この頃十三湖の汀線が下之切通沿いまで迫っていたことがわかる。また,今泉村~相打大田村の距離は31町50間で,その間に「なゝひら坂と申坂御座候上五町」と「大の坂と申坂下弐町十間」があった。なお,元禄7年の御国中道程之図(国立史料館蔵)では,今泉より北方4町40間の福田というところに一里山があり,その先十三湖沿いに20間の砂路と,1町・1町50間の石路2か所があって,さらに道は山中に入り「登大坂弐町三拾三間」となっている。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「唐崎・布引・泉川・ふしの森」があり,反別は田15町余・畑屋敷6町2反余,また,檜雑木の留山5か所,留山(鷹待場)2か所,漆木153本があり,このほか観音堂の堂地がある。元禄3年には金木【かなぎ】組に属し,村位は下(平山日記)。中里村の加藤家永代帳(加藤八州夫氏所蔵文書)の元禄14年の記事の中に「今泉村助十郎儀元来三拾石酒屋ニ御座候,元禄六酉年戌年三拾石之御役銭上納」とあり,当村において酒屋が営まれていたことがわかる。享保7年に,檜2間6寸角26本が伊勢御師へ寄進されている。文化6年の金氏覚書によれば,反別は田22町2反余・畑屋敷10町5反余,家数42,人数275,馬71,船12,うち三人乗7・秣苅船5(中里町誌)。今泉川上流の柏木沢に製鉄跡があり,由来は不詳であるが,西方七里長浜の砂鉄を水路運搬し,豊富な檜木炭により精錬したという(同前)。製鉄は,幕末に明珍重吉あるいは今村万次郎によって事業化されたが,不成功に終わり,のち明治になってからは小野組によって今泉鉄山が試掘されたものの,明治7年には見込みがないため放棄されている。神社は,地内今泉山山頂に神明宮がある。同境内中腹にある観音堂は津軽三十三観音第16番札所で,はじめ寛文9年に唐崎山に建立されたものという(津軽三十三霊場)。「安政2年神社書上帳」には飛竜宮が見え,観音堂が飛竜宮に変わったことがわかる。のち飛竜宮は明治初年の神仏分離の際に取り壊され,明治8年に現在地に再建されている。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年北津軽郡に属す。明治初年の戸数50,村況は「東は山に倚り,西は十三湖あり,土地菲く田多し,農隙炭薪ヒ材を出す」といい,また,温泉について「本村の北十八丁にあり,冷湯なれは風呂を設て客を待つ,金瘡湿毒に宣しとて浴する者絶えす」と記す(国誌)。明治8年地租改正時における山林の反別は,民有山林46町余・官有山林4,043町余であった。同10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,戸数76,人数489,うち男237・女252,物産は米・薪炭・屋根板・檜材など。同12年の「共武政表」によれば,戸数73・人口442(男217・女225),馬33,物産は米・檜・薪・炭。同13年今泉小学校が開校,翌14年の生徒数19・教員1,同20年今泉簡易小学校と改称(県教育史)。同22年内潟村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250232 |





