売市村(近世)

江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属す。元和4年の南部利直知行宛行目録に「売市」「新屋村」「あら屋」とあり,近世初期は根城南部氏の知行地であった。村高は,「正保郷村帳」228石余(田168石余・畑60石余),「貞享高辻帳」228石余,「元禄10年高帳」471石余(田375石余・畑96石余),「天保郷帳」623石余,「旧高旧領」404石余。「雑書」慶安2年1月の条に「八戸売市池ニむせ白鳥雁討 有之与,同村之小三郎見付上ル由」とみえる。用水は売市堤(御前堤・下堤ともいい,現長根公園総合運動場に当たる)を活用。「八戸藩日記」寛文5年9月の条に「類家・売市二ケ所之堤さらい御普請」とあり,元禄6年には水門が石垣造りとされた。白山川の流れを貯水する同堤は,南の沢里堤とともに北東部の沼館村や柏崎村方面にも配水される主要水源となっていた。馬淵川を隔てて対岸の長苗代村とは大橋で結ばれ,「雑書」承応3年9月の条に「八戸御橋百二十間,渡始八月晦日」とある。盛岡藩の渡辺益庵は,万治三年の「八戸紀行」に「西のかなたに一すし見えけるは,まへち川にかかれる長橋なり」と記載。「八戸藩勘定所日記」昭和2年12月の条によると,橋の規模は長さ104間・幅3間半・繰数34繰となっている。当村は八戸城下に接しており,大橋から長根を経て堤町に至る道路は,城下への近道で往来者も多かったことから,しばしば通行規制が加えられた。領内制札場の1つで,天和2年に設置(八戸藩日記)。延享3年の御巡見通行ニ付御差立勤方覚では,戸数70・人口260,馬76(概説八戸の歴史)。享保17年3月長根で藩士宅を焼失したが,火事場に藩主が赴いている(八戸藩日記)。同地には安政5年藩主の別荘が造営された(八戸藩史料)。神社は江戸期に天神堂と称された天満宮があり,その北には横枕観音堂もあった。観音堂は寛保3年の「奥州南部糠部順礼次第全」に「横枕之正観音堂舎」とあり,糠部三十三観音の第11番札所とされる。当初は大橋の東方にあったといい,宝永7年長根に移転建立(八戸藩日記)。北側の低地に観音下の小名をとどめる。なお,天満宮付近に修験の大泉坊が居住。「八戸藩日記」元禄8年7月の条に「売市村大泉院」とみえ,同書宝永5年6月条には「八戸年中行事 大泉坊」とあって惣録の次に名を連ねている。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の「国誌」によれば,家数は本村88,支村の長根36,地内の状況を「八戸市に近けれは貫属の邸宅等ありて民居聊整り。然しも畑多けれと水田は少く,且瘠地にして只大小二麦と粟を殖へし」と記す。支村の長根は「堤丁より馬淵川大橋の岐路両側に住し貫属屋市あり。壮男の北溟に出傭する本村に同し」とある。明治12年の「共武政表」によれば,戸数129・人口742(男376・女366),寺院1,学校1,牛5・馬75,物産は米・麦・雑穀・蔬菜・麻糸・鳥類。同22年館村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250322 |