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大俵村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。元和・寛永年間から開発された三千石遺14か村の1村と伝える(平山日記)。村高は,「正保高帳」「寛文高辻帳」ともに236石余,「貞享4年検地水帳」871石余(田778石余・畑屋敷92石余),「寛保高辻帳」236石余,「天保郷帳」677石余,「旧高旧領」930石余。慶安元年,弘前藩家老大道寺宇右衛門為久は3代藩主信義の排斥事件に連座して蟄居を命じられ,以後12年間当村に居住した。天和3年の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)によれば,三千石代官所支配の新田村として大俵御蔵新田が見えるが,のちに当村に吸収されたと思われる。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「西田・和田・富永」があり,反別は田79町余・畑屋敷17町余(うち屋敷地1町8反余),ほかに村中抱えの畑地,永荒田,彦十郎抱えの八幡社地がある。元禄3年には柏木組に属し,村位は中(平山日記)。藩は寛政改革の一環として荒廃田畑の復興をめざして藩士の在宅を図ったが,寛政7年の当村の在宅者名として毛内喜蔵が見える(板柳町誌)。天保年間には小阿弥堰・三千石堰の水下に編成されていた(津軽平野開拓史)。神社は八幡宮があり,承応3年成田与兵衛の創立と伝える(板柳町誌)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年北津軽郡に属す。明治3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し,これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われたが,同年当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子130俵1人,95俵1人,40俵2人,30俵3人,20俵7人の計14人であった(板柳町誌)。明治初年の戸数57,支村大俵派21(国誌)。大俵派は新兵衛派とも称したという(板柳町誌)。同6年八幡宮は高増村鹿島神社へ合祀されたが,同12年復社した(同前)。同年の「共武政表」によれば,戸数103・人口641(男312・女329)。物産は米・大豆。同22年小阿弥村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250381