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大間村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。村高は,「正保郷村帳」6石余(うち田6石余,畑8升余),「貞享高辻帳」7石余,元禄12年の絵図でも7石余,「邦内郷村志」58石余(うち畑16石余),「天保郷帳」58石余,「安政高辻帳」47石余,「旧高旧領」58石余。大間湊は林木・海産物の積出港,寄港地として早くから開け,町場も形成された。「雑書」寛永21年4月26日条に浦番改派遣の記載がみえる。正保2年には田名部五ケ湊の1つに数えられ,元禄12年には田名部同七ケ湊の1つに指定された(南部藩御絵図御書上之湊並浦・郷村古実見聞記)。なお,「邦内郷村志」では七カ湊から除かれているが,理由については不祥。正保2年には大間崎に船遠見番所が設置された。同4年の南部領内総絵図には,「大間湊,湊口広三十間,深所壱丈,左右ニはゑ有舟懸不自由,此湊より奥戸湊迄海上道規壱里半,此湊より松前之内ウスキシ迄海上道規五里」とある。「雑書」寛文6年6月条に上方船・松前船の入津がみえる。江戸期,当湊は檜材と長崎俵物の積出港として栄え,伝法屋・能登屋などの廻船問屋も多く定着した。彼らは「仕込制度」によって漁民を支配した。鰯〆糟は江戸に出荷され,宝暦5年には鰯網師議定が作成されている。「邦内郷村志」によれば,漁船は24艘。嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」によれば,当湊の様子を「大澗浦……此所浜形北向,少の浜有,其岬に並て又島有,弁天島といへり,船は皆以島陰に有,六百石,千石位の船も少しかゝれり,人家六七十軒,上町下町と二丁に並び町内に川有,細流也,漁者,農家,船夫,小商人の接り,此所へも又此近年船番所を立て出入の船を改,村内庵二ケ所,氏神社有……是より松前,函館湊へ六里,凡此向は函館薬師山の西南クラカケ岬辺へ当也,運送賃壱人前金弐朱之由」と記す。あわせて同書は,弁天島における漁業の様子を,「此島に海苔,蚫,海亀等有,扨此島に九月比浜荒れと云事有て,其日より島へ布海苔を皆取に行事也,凡女の嫁には初日は壱貫文,二日めハ八百文位,三日,四日に四百文,三百文位と追々減るよし」と書き記している。享保年間頃の当地域における貢租は,高間役と肴役の一応二本立てで,漁船単位の賦課であり,磯物については現物納であった。高間役は均一賦課で1艘につき砂金1分,肴役は不均一賦課で,上浦に属した大間村では1艘につき砂金2分7厘3毛であった(下北半島史)。このほか,文化9年の「乍恐御受奉申上候事」によれば,夫伝馬と田名部町定役銭が諸役負担としてあげられている(佐井村誌)。当村の家数・人数は,元文5年36軒・434人(菊池家記/県租税誌),「邦内郷村志」では72軒・333人,馬51疋・牛68疋,「本枝村付並位付」では家数44,位付は下の下,駅場とある。天明飢饉の影響はあったが,その後大きな変動はみられない。大間野は盛岡藩営九枚の1つで寛文年間の設置と考えられ,元禄12年の絵図に書き上げられている。江戸中期の一時期を除き周年野飼であった。また,奥戸【おこつべ】牧の馬と区別するため右耳を切って目印とした。当牧の馬数は宝暦5年113疋,慶応3年104疋。当村,および大間崎は箱館と最短距離にあることから,享和年間以降蝦夷地警備において火急の際は櫓24挺100石積の押切船で渡海したとされる。文化5年には大砲台場を5か所,烽煙台を1か所設け,大砲8門を設置した。安政2年高磯崎にも船遠見番所を設置,翌3年同所に台場を統合した(宇曽利百話・原始謾筆風土年表)。神社は,「御領分社堂」によれば,いずれも別当が修験光円坊の稲荷宮・勢至堂・天妃権現・弁財天堂があった。稲荷宮は集落の中央部にあり,享保15年の勧請と伝えられる(国誌)。再生産の糧の多くを海に依存するため天妃信仰が盛んであり,菅江真澄「天妃縁起」が現在稲荷神社に蔵されている。寺院は,地内寺町に佐井村長福寺末庵の曹洞宗地蔵庵がある。山庵は長福寺8世万江が宝暦4年に開庵したという(国誌)。のち,昭和18年寺号を許され大澗山福蔵寺となる。地蔵庵の隣に佐井村発心寺(発信寺)末庵の浄土宗阿弥陀院がある。同院は宝永2年武内某の開基,観山の開山という(同前)。現在の無量山阿弥陀寺である。なお,阿弥陀寺の勧請は元禄元年ともいう。また,同寺では寛政年間から寺子屋が開かれた(大間町沿革史年表)。このほか,「邦内郷村志」によれば,当村に田名部常楽末寺の真言集蓮法院が書き上げられているが,江戸期のうちに廃寺となったと思われ,現在は見られない。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。同11年下北郡に属す。明治3年大間牧が廃止される(同前)。戸口は明治5年77戸・453人,同14年80戸・494人。明治初年の「国誌」によれば,戸数78,村況は「海浜に住し,当西北の尽頭にあり,村居高低あり,山手にあるを上町と云,長三丁,海岸を浜町と呼ふ,長三丁五間,間に小坂ありて市店あり,郵便所・陸運会社を設く……土地下,田少く漁を専とし,北地出傭すること前村(易国間村)に同し」という。この頃町場は上町と浜町に分かれていたことがわかる。「郵便所・陸運会社を設く」とあるのは,「大間町沿革史年表」明治7年の記事の中に「大間,函館間渡船18艘,旅客郵便輸送に従事」と見えることを指すものと思われる。また,「国誌」では,大間港の様子を「東西三丁,南北四丁,深一丈五尺,舟二十五艘を碇泊すへし,これより箱館に渡る海上七里,順風には三時間にして渡るへし」と記す。明治11年北海道への出稼者63戸,他出寄留28人(同前)。明治以降大間港の重要度は低下し,北海道への出稼ぎと小規模な地先の漁業によって生計が営まれることになったのであり,以後明治17年から数年がかりでサメ延縄を発明した佃栄太郎をはじめとして漁業生産の拡大につとめることとなる。明治12年の「共武政表」によれば,戸数81・人口491(男249・女242),牛32・馬43,日本形船13(100石積以上9・同以下4),学校1,物産は鮑・干鮑・海苔・鹿尾草・心太草・布海苔・昆布。明治6年当村に第7大学区第16中学区6番小学が開校,翌7年大間小学と改称,この時の生徒数男62・女17,教員3(県教育史)。同15年稲荷神社に天妃神・金毘羅神を合祀。同21年田名部警察署大間分署が設置される。同22年大奥村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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