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奥内村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」772石余,「寛文高辻帳」859石余,「貞享4年検地水帳」874石余(田826石余・畑23石余・屋敷地24石余),「寛保高辻帳」859石余,「天保郷帳」789石余,「旧高旧領」963石余。当村は浜通(松前街道)沿いに立地し,いわゆる外ケ浜上磯通にふくまれる。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「宮田・平塚・川合」があり,反別は田109町1反余・畑屋敷13町3反余(うち屋敷地3町余),このほかに見取場(畑)地6反余,開発可能地(田畑)34町8反余,池床1か所・1反余,漆木1本,草山1か所,浜地2か所・39町6反余,空地1町5反余,永荒地(田畑)4町3反余,鉄御番所屋敷地6反余,大明神社地,稲荷社地,雷電社地が見える。また,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されている。元禄3年には後潟組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。当村は水田耕作・沿岸漁業を主とする村である。享和2年の伊能忠敬「測量日記」によれば,家数49軒で,「海へ十二丁,左田地,前の小山ハ二十四五丁」とあり,前田村を当村の寄郷としている。神社は,地内川合に蔵王宮(もと大明神社)がある。開創年月は不詳で,末社に神明宮があった(安政2年神社書上帳)。神仏混淆神社調帳(八木橋文庫蔵)によれば,蔵王宮は明治初年の神仏分離に際し三所神社と改めたという。さらに三社神社と改称する。ほかに稲荷宮があった(安政2年神社書上帳)。寺院は,地内宮田に浄土宗名越派の仏法山青岸寺(清岸寺)がある。同寺は,寛永7年油川浄満寺2世清岸の開創で,浄満寺末寺といい(青森寺院志),また,元禄3年弘前貞昌寺の清岸の開基で,貞昌寺末寺仏法山守護院と称すともいう(国誌)。さらに,慶長3年の創立で,良厳の開山ともいわれる(享和3年寺社領分限帳)。なお,文久2年の御郡中寺社一列(朧月集,弘前図書館蔵)では,貞昌寺配下と見える。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数59,村況は「海に臨み土地中,小店あり」という(国誌)。また,西部山間の黒滝沢(奥内川)沿いにかつて温泉があったという(同前)。明治11年民家を借用して奥内小学が開校,翌12年の生徒数男40,教員1(県教育史)。同年の「共武政表」によれば,戸数69・人口540(男280・女260),馬77,寺院1,学校1,物産は米・鱈・鯖・檜。同22年奥内村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250473