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尾駮(近代)


 明治22年~現在の六ケ所村の大字名。明治24年の戸数36・入口303,厩36,学校1,船6(徴発物件一覧)。尾駮小学は明治16年初等小学校,同21年簡易小学校,同25年泊小学校尾駮分教場と変遷した。大正14年高等科を設置。明治44年2歳牛の競り市が高橋鉄男家の前で催され,第2次大戦の終戦まで続いた。競りの日は6月1日から6日までで変わることはなかった。昭和22年学制改革により尾駮小学校に尾駮中学校を併設。同38年尾駮中学校・鷹架中学校が合併して,第一中学校が開校。同年尾駮永久橋完成。同39年六ケ所村母子健康センターが開設。同45年尾駮簡易水道完成。同46年尾駮診療所完成。集落は,老部【おいつぺ】川・二又・室ノ久保・弥栄平などがある。本村の西北に位置する老部川地区は,明治34年栃木県上都賀郡小代村出身の福田嘉市郎氏が当地周辺の村々から入植者を募り,老部川の水を利用し,20年を費やして不毛の地に水田50ha・畑100haを開墾したところである。昭和49年開拓75周年に氏の胸像をたてて顕彰した。老部川地区の同35年の世帯数50・人口292。同50年老部川災害関連工事により,老部川橋(永久橋)が完成。同57年六ケ所海水漁協が海水漁業鮭孵化場を設置。老部川の上流は,ヤマメ・イワナの宝庫で釣人を楽しませている。また,尾駮沼に流れ込む二又川の沢地に二又地区があり,主要産業は明治以来畜産,特に軍馬の飼育と製炭業(白ズミ)で,明治末期より大正10年までは,国鉄東北本線・大湊線の枕木を切り出し,その人夫賃で官有地の払下げをうけ,牛の放牧地とした。大正7年尾駮小学校二又分校開校,昭和27年独立し,二又中学校が併設された。同38年給食室完成。同39年第一中学校ヘ統合のため二又中学校廃校。同53年二又へき地保育所開設。同54年二又小学校は日本教育版画コンクールで最優秀賞を受賞。同55年,56年連続学校賞を受賞している。二又地区の大正5年の戸数7,同11年の世帯数9,同15年の世帯数15,昭和35年の世帯数41・人口250,同52年の世帯数53・人口249。鷹架沼の西岸にある室ノ久保地区は,古くは北方の山の上に位置していたが,沼の眺望がすぐれ,魚類の恩恵もあったので現在地に住みついたらしい。明治初年にはここの土地は下の下で,芋類・豆類・野菜などしか収穫を期待できなかったため,沼からの魚獲は生命をつなぐ必要不可欠のものであった。のち収入の大半は周辺一帯の放牧地で放牧する牛馬(軍馬を含む)の管理に依存するようになった。その後,営林地として植林を始めたり,明治30年頃「ひえ田」を水田に切りかえて,現在は田4,535a。畑地1,867aに至った。昭和22年室ノ久保中学校開校。室の久保地区の世帯数・人口は,同35年41・223,同52年44・170,同54年41・166。弥栄平集落は,昭和54年むつ小川原国家石油備蓄基地建設の決定によりその対象地となり,閉村した。尾駮全体の昭和56年の世帯数559・人口2,101。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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